「呪い」の時代の「祝福」へ。ジョジョリオンとは何だったのか? ─  その5【完】

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『人は厄災に立ち向かってはならない』

本作の真の勝者は主人公の定助ではなく、東方家の母、花都(かあと)です。彼女はあえて先祖の「罪」を背負い、己の命を代償に「罪」を償うことで、家族の「祝福=呪いの解除」を得ました。まさに命を賭した等価交換です。

透龍(とおる)のスタンド『ワンダーオブU』は人の執着心に寄生し、自動的に反応して攻撃します。それに対して花都は透龍自らが己の命の危機から逃れる為、彼女に触れ、等価交換でもって回復しようとする企てを利用しました。つまり逆に相手に自分を執着させたのです。

これが『ワンダーオブU』に唯一勝てる方法だった『決してこちらから追う事は出来ない、けれど追わせるのは良い』を実現させました。しかし、等価交換の連鎖から一方的に自分だけが抜け出す事はできなかった。覚悟の上とはいえ、彼女は命を落とします。

荒木飛呂彦(2021)「ジョジョリオン」第27巻 集英社

人は絶対に等価交換の連鎖から抜け出すことは出来ない。一見、無秩序に見えて、それらは「理(ことわり)」で緻密に絡まり合っているから。だからそれには触れず、執着を捨て、逃走しなければならない。その4でルーブルの地下から逃げた岸辺露伴のように……。最終巻の巻頭には荒木さん自身が語った以下の言葉まであります。

『厄災』という敵は最強で最恐だと思った。厄災は不条理で襲って来るけれども、実は「理(ことわり)」でがんじがらめに繋がっていて、万人のもとに平等にやって来る。

強すぎる。厄災を「乗り越える」とか考える事、それ自体がいけないことなのかもしれない

荒木飛呂彦(2021)「ジョジョリオン」第27巻 集英社
荒木飛呂彦(2021)「ジョジョリオン」第26巻 集英社

『戦うな、逃走せよ』

「厄災に立ち向かわず、逃走せよ」と言うのは実は戦後の好景気を享受した世代に多い考え方であり、80年代にはその名も『逃走論』なるベストセラーまで出ていました。これは戦前から続く、マッチョな固定観念からの脱却を目指したものでした。あの時代、それは多分に真実を含んでおり、生き抜く為の重要な智恵であった事は疑う余地もありません。

ちなみにマッチョな固定観念とは何か? を分かりやすくまとめると、一家(国家)をかまえ、そこを中心として領土の拡大を図り、富を蓄積し、女を独占し、産ませた男を外に出て行かせ、さらなる一家(国家)の発展をめざすというものでしたいわゆる男の物語というヤツです。前作『スティール・ボール・ラン』で描かれたのは、まさに現代世界の「呪い」の元凶である、中心国家=アメリカの成立過程でした。

ただし、世の中に絶対的真実はあり得ません。物事は常に是々非々=その時々の事象によって柔軟で公平な立場で判断することが大切です。ある時代、ある場所で「真実」だった物事が別の場所では「悪」となることだってある

例えばこれを書いている2022年4月現在、ロシアのウクライナ侵攻が世界最大の関心事であり、テレビ等でも連日取りあげられています。そこでちょっとした話題になっているのが、祖国を守る為、徹底抗戦を掲げるウクライナに対し、「何やってるんだ! まず大切なのは命だろ! 戦わず逃げろよ!」と当事者たるウクライナ人らに向かって説教する、当事者ではない日本のコメンテーターたちです。彼らはいずれも荒木さんと同じ、戦後の高度成長期を生きた人々です。

もし、ウクライナ人たちがその言葉に従い、一斉に逃走すればどうなるでしょう? それは既に起こりつつありますがジェノサイドの横行、その果てには国家の解体=崩壊が待っています。国が無くなるという事は言語や文化、風習、歴史、それら全てが消えるという事です。

少なくともこんな状況下では『逃走論』は通用しません。そこで否定されたマッチョな物事こそが皮肉にも今、求められているものなのですから……。

『再び、呪いの時代へ』

ここ200年ぐらいの世界の歴史を紐解くと、様々な「呪い」を育んできたものは『逃走論』が否定しようとした、【一家(国家)をかまえ、そこを中心として領土の拡大を図り、富を蓄積し、女を独占し、産ませた男を外に出て行かせ、さらなる一家(国家)の発展をめざす=男の物語というものでした

強い男とそれに従うか弱い女、力こそ正義である。非常に分かりやすい構図です。けれど時代は進み、我々はそこから何とか逃れたかに思えた。けれどそれは大きな間違いでした。「武力でなく、話し合いを」=戦争抑止を理念に作られたEUや国連は今回のウクライナ戦争では何の役にも立たず、再び武力の台頭を許した。ちょっと唖然としますよね……。

直接的な力に対して、少なくとも即応性の面において、話し合いなんて絵に描いた餅であり、全く役に立たない、一瞬でそれが露わになりました。まさに今作で描かれた3.11.により、日本戦後のツケが一気に露呈したように……。

それらをいち早く予見していたのがこの前に評論した『進撃の巨人』でした。そこで描かれた高い壁に守られ、平和ボケした街は今の日本の精神世界そのもの。「僕らは世界の現実を何も知らず、ただぬくぬくと守られていただけじゃないか!」、諫山創さんに加え、若い作家らは現実世界にとても敏感です。それはやはり右肩下がりの社会を生きてきたからでしょう。

その日、人類は思い出した。ヤツらに支配されていた恐怖を……。

鳥籠の中に囚われていた屈辱を……。

諫山創(2010)「進撃の巨人」 第1巻 講談社

けれど戦後の好景気を生きることが出来た僕も含めた世代はそうじゃなかった。『進撃の巨人』が「現実への覚醒」を促すものならば、やはり荒木さんらが描いてきたものは多かれ少なかれ「現実からの逃避」だった。大好きな作家ですし、それ自体を批判しているわけではありません。ただし、これはやはり厳然たる事実だと思います。もちろんエンターテイメントとして、「覚醒」と「逃避」はどちらも必要の要素である事は言うまでもありません。

次なる世界の祝福へ』

今後、創作に関わる人たちは間違いなく、今回のウクライナ戦争の影響下にあります。なぜなら創作物の受け手=読者たちが戦後教育の中で、今まで自分たちが信じ込まされてきた理想論の多くが虚構であり、現実世界では有用性を持たないと無意識的に感知してしまったからです

無意識的であれ、間違いなく無慈悲な暴力がこの世界に存在し、それを止めるのが困難である事。自分たちもいつか戦争に巻き込まれる恐怖が顕在化したこと。これらは新たな「呪い」の発動です。

戦後世界の「祝福=呪いの解除」とは、長い人間の歴史の中で決してもたらされる事のなかった個人の権利の追求であり、分かりやすく言うとLGBTやSDGsを含めた多分にリベラル的な思想です。それはやはり大切な理念であり、人が人として決して失ってはいけないものです。けれどそれらは人間の「業」たる「戦争」を止める事は出来なかった。

だからと言って僕は別に荒木さんら先人達の『逃走論』を否定するわけではありませんし、最終的な「祝福」はそこにあるのではないかとも思っています。ただし、それには今一度、現実を直視した上での『叩き直し』が必要であり、『Go Beyond(越えていく)』にはまだ早いということでしょう。

荒木飛呂彦(2021)「ジョジョリオン」第27巻 集英社

大好きな作家だからこそ、あえて述べますが今作『ジョジョリオン』は個人的見地で見れば、これまでのJOJOシリーズの中ではつまらない作品でした。理由として先に述べたとおり、1部から6部までにあったエンターテイメント性、7部にあった綿密な考証と思想性、どちらも中途半端だと感じられたからです。

けれどそんな事は僕が偉そうに述べずとも荒木さん自身が「絶対に」自覚していると思います。優れた作家は常に自己批判を忘れない。彼が今日までずっと世界的な人気作家である理由はそこにあると思っています。

1部から3部までの王道の少年漫画的な流れに危機感を感じ、「人間の内面世界=悪」へと足を踏み入れた4部。5部の「運命」や、6部の「幸福とは何か?」といった哲学的な考察を重ね、7部では「人類の営み=歴史」にまで足を踏み入れています。

『今作に込められた、最大のテーマ』

そんな中、本作のラストはこれまでの作品の中で最も凡庸で、カタルシス(情緒の解放とそれによる快感)が少ないものでした。けれど以下のシーンをよく見れば分かりますが、そこには深い想いが込められています。

荒木飛呂彦(2021)「ジョジョリオン」第27巻 集英社

オレの一番最初の「想い出」は……「壁の目」の土の下で目を覚ました時が「始まり」なんだよ。それより前の記憶はどんな事をしても何も戻らない。出会った人も、行った場所も決して何も無い。オレは空条徐世文でもなく、吉良吉影でもなく、土の中からの『定助』なんだ。

荒木飛呂彦(2021)「ジョジョリオン」第27巻 集英社

父も母もいない「土」の中から生まれた定助が家族を得たばかりか、答えを選び、一家を導く「父」的な存在になっています。まさに従来の男性像&家族像から脱却した、新たな父、新たな家族がここに生まれているのです

僕はこれまで散々、伏線回収が成されていない、つまらないなど、偉そうな事を述べてきましたが、このラストシーンを見ると荒木さんが今作で本当に描きたかったものが分かりますし、実に一貫性を持っていたのかも理解できます。なぜなら最後に定助が「選ぶ」という、このシーンの伏線が最初でしっかりと貼られているからです。なんと彼が始めて東方家を訪れる車中での話です。

荒木飛呂彦(2012)「ジョジョリオン」第2巻 集英社

ここで東方家の古き父、憲助はラストで新たな父となる定助に『クマちゃんのぬいぐるみと戦闘ロボ』のどちらかを選ばせています。これは完全なるメタファーです。戦闘ロボが古き価値観に縛られた男性像ならば、女性的でフカフカなぬいぐるみは、まさにマッチョを脱ぎ捨てた新たな男性像=父の姿だからです

10年以上前、このシーンを読んだ時はなんのこっちゃと思いましたが、荒木さんにとっては必然の表現であり、前作『スティール・ボール・ラン』で描いたのがアメリカ=マッチョな古き男性像の成立過程ならば、本作『ジョジョリオン』で描こうとしたのは、それを脱却した新たな世界の家族であり、そのための父=男性像だったのだと思うのです

いや〜、やっぱ凄い作家だよ! そう思います。

それでは次作はどうなるのでしょう。新たな家族 or 父の物語? それとも現実に根ざした逃走論? それは分かりませんが、荒木さんが今回の戦争を糧に、さらなるアップデートをして帰ってくる事を1人のファンとして切に期待しています。人生100年時代、あと10年は書き続けられる作家さんですし、大いなる集大成がその先に待っているのだと確信しています。

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