「一人称単数」から始まった、村上春樹の新たな旅 — 「街とその不確かな壁」 — その3

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『悪の消失』

その1の最後で述べたように『街とその不確かな壁』がこれまでの村上作品と比べて、決定的に違う点のひとつとして「悪の消失」が挙げられると思います。処女作『風の歌を聴け』から徐々に進化を遂げ、羊三部作最後の『羊をめぐる冒険』で明確になった「悪」との対峙はその後、姿形を変えながら長編小説では前作の『騎士団長殺し』までずっと引き継がれてきました。

しかし今作ではそれが丸ごと消えている。なぜなら先に述べたように今作で村上さんが対峙しようとした相手は「己の過去の過ち」に加え、今や確かめようもない「亡くなった他者の記憶や想い」だったからでしょう。他人が本当は何を考えていたのかなんて知りようもないし、その相手が死んでしまったのならなおさらです。

けれど知りようがないからこそ、それは探求されなければならない。これって存在するかどうかも分からない神の御心(みこころ)を追究する宗教と同じ領域です。そしてそこに村上さんの新たな挑戦がある。象徴的なのが作品の冒頭に引用されたイギリスの詩人、サミュエル・テイラー・コールリッジの『クプラ・カーン(モンゴル帝国の皇帝チンギス・ハンのことです)』の一節です。

その地では聖なる川アレフが
人知れぬ幾多の洞窟を抜け
地底暗黒の海へと注いでいった。

サミュエル・テイラー・コールリッジ『クプラ・カーン』

ちょっと長いですが、全文を岐阜女子大学デジタルミュージアムサイト内の訳文を引用させていただきます。

ザナドゥにクーブラ・カーンは壮麗な歓楽宮の造営を命じた。そこから聖なる河アルフが、いくつもの人間には測り知れぬ洞窟をくぐって日の当たらぬ海まで流れていた。
そういうわけで五マイル四方の肥沃な土地に城壁や小塔が帯のようにめぐらされた。あちらにはきらきらと小川のうねる庭園があり、たくさんの香わしい木々が花を咲かせていた。こちらには千古の丘とともに年を経た森が続き、そこかしこに日の当たる緑の空地を囲んでいた。

しかしおお、あの深い謎めいた裂け目は何だ、杉の山肌を裂いて緑の丘を斜めに走っている!
何という荒れすさんだ所か。鬼気せまることさながら、魔性の恋人に魅せられた女が三日月の下を忍んできては泣くような場所だ。
この裂け目は絶えずふつふつと煮えたぎり、まるで大地がせわしなく喘ぐかのようだったが、
間をおいて力強い泉が一度にどっと押し出された。そしてその激しい半ば間欠的な噴出のさなか、巨大な岩片(かけら)の飛び跳ねるさまはたばしる霰か連竿(からざお)に打たれはじける籾粒のようだった。そしてこの踊り跳ねる岩塊と時を同じくして裂け目から聖なる河がほとばしり出た。
5マイルにわたって迷路のようにうねりながら森や谷を抜けて聖なる河は流れた。やがて人間には測り知れぬ洞窟に至り生き物の棲まぬ海に音を立てて沈んだ。そしてこの騒音のさなかにクーブラは聞いた、戦争を予言する先祖たちの遠い声を。

歓楽宮のドームの影が
川路半ばの波間に浮かび
噴泉と洞窟の双方から
入り混じった調べが聞こえた。
それはたぐい稀な造化の奇跡
氷の洞窟を控えた陽光の歓楽宮!

ダルシマー弾く乙女を
かつて夢の幻の中で私は見た。
それはアビシニアの娘で
ダルシマーを奏でながら
アボラ山の歌をうたっていた。
もしそれを心中によみ返らせたら
あの乙女が奏でまた語った調べと歌とは
どんなにか深い喜びに私を引き入れ、
嫋々と高らかなその楽の音によって
私はあのドームを空中に造り上げることか、
あの陽光の宮殿を、あの氷の洞窟を!
すると聞いた者はみんなそれをそこに見、
みんな叫ぶであろう、気をつけろ、気をつけろ!
あのきらきら光る眼、あの流れ乱れる髪!
あいつのまわりに輪を三重に描き
聖なる恐れで両の眼を閉じるのだ、
あいつは神々の召される甘露を味わい
天国のミルクを飲んできたのだから。

引用元:https://dac.gijodai.ac.jp/studioM/deapa/index.html

なぜ村上さんはこの詩を引用し、しかも作品の冒頭に置いたのでしょう? それはこの詩自体が『街とその不確かな壁』を連想させることに加え、この詩の成立過程にあると思います。これはコールリッジが眠りにつく前に読んでいた本の影響下の元、彼の見た夢を詩にしたものだからです。

さらにコールリッジは夢の中の街「ザナドゥ」のイメージを、自身の頭の中でどんどん膨らませ、詩という形でさらに具現化していった。それはまさに『街とその不確かな壁』における「きみ=彼女」が自身の頭の中で精緻に創り上げた「街」と一致します。

コールリッジも「きみ」も現実ではなく、己の夢想した「ザナドゥ=壁に囲まれた街」の中に呑み込まれていったのです

村上春樹(1985)「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」新潮社

「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの」ときみは言う。「じゃあ、今ぼくの前にいるきみは、本当のきみじゃないんだ」、当然ながらぼくはそう尋ねる。「ええ、今ここにいるわたしは、本当のわたしじゃない。その身代わりに過ぎないの。ただの移ろう影のようなもの」

村上春樹(2023)「街とその不確かな壁」新潮社

そして、それに加担したのが主人公である「私=ぼく」でした。つまり彼は無自覚のうちに彼女の病の進行に力を貸していたのです。それはすなわち過去の「過ち=罪」、以下の文章を読めば分かるように「ぼく」はこの時点では全くそれに気付いていません。

主にきみがその街の成り立ちを語り、ぼくがそれについて実際的な質問をし、きみが回答を与えるというかたちで、街の具体的な細部が決定され、記録されていった。その街はもともときみがこしらえたものだ。あるいはきみの内部に以前から存在していたものだ。でもそれを目に見えるもの、言葉で描写されるものとして起ち上げていくにあたっては、ぼくも少なからず力を貸したと思う。きみが語り、ぼくがそれを書き留める。古代の哲学者や宗教家たちが、それぞれの忠実で綿密な記録係を、あるいは使徒と呼ばれる人々を背後に従えていたのと同じように。ぼくは有能な書記として、あるいは忠実な使徒として、それを記録するための小さな専用ノートまで作った。その夏、二人はそんな共同作業にすっかり夢中になっていた。

村上春樹(2023)「街とその不確かな壁」新潮社

あの時、「きみ」の中で本当は何が起こっていたのかを全く知ろうとしなかった自分。だからこそ、その結果として「きみ」を失うことになった。であるなら、もう一度、あの時に立ち帰り、「きみ」が何を考えていたのかを知らなければならない。

僕が今作を読んでいる最中、最も頭に浮かんだのが同じようなテーマを扱った『ノルウェイの森』の後日譚である『めくらやなぎと、眠る女』です。こちらは過去に論じているので宜しかったら合わせてご覧ください。

実際、今作の「きみ」と『ノルウェイの森』の「直子」のイメージが重なったという読者の方も多いのではないでしょうか?

「めくらやなぎと、眠る女」は上記短編集に収録

過去=亡霊たちからの呼び声

自身の「老い」の自覚と、そこで浮かび上がってきた新たなテーマに加え、村上さんを突き動かしたもうひとつの衝動、それが今作の帯文にあった『その街に行かなくてはならない。なにがあろうと』なのでしょう。ではなぜ、行かなくてはならないのか? そこには大きく分けて、ふたつの理由があると思っています。

ひとつめの理由、それは作者自身があとがきでも述べている通り、過去に発表されたものの封印されたままだった中編小説『街と、その不確かな壁』への再挑戦です。具体的には「自我(エゴ)」と「自己(セルフ)」の関係性、加えてそれを成立させる「壁」という存在は何か? と言う考察です。これは後で詳しく語ります。

次にふたつめの理由ですが、それは「過去からの呼び声」。村上さんの小説は初期段階において「イノセンスの消失」と、そこから取り残された主人公らの姿を描き続けてきました。『羊をめぐる冒険』の鼠や、『ノルウェイの森』の直子やキズキ、ハツミさん etc……。彼らは通過儀礼を経て、社会的な意味での「大人」になることが出来ず、『クプラ・カーン』で言う、「聖なる川アレフが人知れぬ幾多の洞窟を抜け地底暗黒の海へと注いでいった」ように忘却の彼方へ流されていきました。

けれど年を経て、過去の記憶や罪は「亡霊」となって蘇ってくる。村上さんはそんな彼らの声を聞いたのではないでしょうか。亡霊と言ったって、たかがフィクションの登場人物でしかないじゃないか? そう思われる方もいるでしょう。

しかし世界中の多くの小説家が語るように、フィクション内のキャラクターは作者からは独立した存在であり、作品世界の中ではっきりと意思を持ち、呼吸している。言い変えるなら作者の中にある記憶や想い、その他諸々を抽出した、掛け替えのない代理存在であり、それらが亡くなったりしようものなら、深い絶望感と喪失感に打ちひしがれてしまう。実際、涙が止まらなくなる作家も多いと言います。

そして一度は村上さん自身が忘却の彼方へと葬った彼ら(鼠、直子、キズキ、ハツミさん)が時を経て、亡霊となって帰ってきた。おそらく彼、彼女はただこう求めた筈です。

「私のことを忘れないで

思えばこれは『ノルウェイの森』でヒロイン直子が、主人公であるワタナベに切々と求め続けたことでした。今作『街とその不確かな壁』は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の続編的作品とも言われていますが、大きく異なるのが、街に引き籠もって出てこようとしない「きみ=彼女」の存在です。

僕はそんな「きみ」こそが鼠であり、直子であり、キズキであり、ハツミさんであり、五反田君やキキだと思うのです。言わば、村上作品の中で「死」を遂げ、忘却の彼方へ流されていった人たちです

「ねえワタナベ君、私のこと好き?」
「もちろん」と僕は答えた。
「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」
「みっつ聞くよ」
直子は笑って首を振った。「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはね、あなたがこうして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝してるんだということをわかってほしいの。とても嬉しいし、とても —救 われるのよ。もしとたえそう見えなかったとしても、そうなのよ」
「また会いにくるよ」と僕は言った。「もうひとつは?」
私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?
「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。
 〜中略〜
本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さく囁くような声で尋ねた。
「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」

よく読めば、この会話では微妙な食い違いが生じており、真摯な直子の願いに対して、当たり前の対応しかしていない、ワタナベの若さゆえの無神経さが浮かび上がってきています。そして実際彼は直子のことを少しずつ忘れていく自分に気付くのです。

読み返してみるとやはり直子と「きみ」がダブって見えます。

だからこそ、その記憶は取り返さなければならない。そして彼らが何を求め続けていたのか? あの時、彼らの中で一体何が起こっていたのか? 「本当のこと」を知ろうとしなければならない。だからこそ前作の短編集で研ぎ澄ました「一人称単数」を用いて、「死んだ他者の記憶=きみの待つ壁の中の街」へと降りて行ったのでしょう。

今作で描かれたのは①『街と、その不確かな壁』&『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』への再挑戦に加え、②過去に村上さん自身が過去に置き去りにしてきた、幾多の「亡霊たち」との対峙というのが本当のところだと思います。

だからこそ、村上さんは「その街に行かなくてはならない。なにがあろうと

その4へ続く

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