インディアンと溶けたチョコレート、「めくらやなぎと、眠る女」 ─ その1

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『ノルウェイの森へと連なる重要な作品』

今回、取り上げるのは村上春樹さんの「めくらやなぎと、眠る女」です。ちなみにこのタイトルを読んで、ピンときた方は結構な村上マニアです。というのもこの作品は「めくらやなぎと眠る女」と中間部に読点が打たれた「めくらやなぎと、眠る女」の大きく分けて2版が存在するからです。簡単にまとめると以下のようになります。

  1. めくらやなぎと眠る女」 1983年12月発表、1984年発売の『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収録。400字詰め原稿で約80枚。
  2. めくらやなぎと、眠る女」 1995年11月発表、1996年発売の『レキシントンの幽霊』に収録。400字詰め原稿で約45枚。

お読みになれば分かりますが、ストーリーは大筋では変わっていません。枚数が半分近くに切り詰められ、村上さんの言葉を借りれば「ダイエット」されています。ただし、加筆修正された箇所が幾つかあり、例えストーリーは同じであっても、これも彼の言葉を借りるなら「少し違った流れと意味あいを持つ作品」となっています。

特にラストですよね。「めくらやなぎと眠る女」では、いとこの耳の中で彼の肉を貪り食う蝿たちのことを主人公の「僕」が夢想するという、不安を掻き立てる内容で終わるのに対し、後年書かれた「めくらやなぎと、眠る女」では過去の出来事とその時は気づくことのなかった「罪=出来事の源流」を自覚し、現実の世界へ戻っていくという流れになっています。

つまり焦点を当てられる内容が、初版では「いとこの耳を聞こえなくさせている何か」なのに対し、改訂版では「僕の過去」となっているのです

村上春樹 著(2009)「めくらやなぎと眠る女」新潮社

村上さんはこれら2つを「少し違った流れと意味あいを持つ」と言っていますが、上記も含めて、読み手である僕の主観&観点からすれば、これは『中身は同じでも、実は全く異なる作品』ではないのか、そうとすら思っています。それはラストシーンの違い以上に、初版を経て、改訂版が書かれるまでの約10年の間に、あの『ノルウェイの森』が挟み込まれているからです

『2つの作品の違い』

『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収められた「蛍」と初版の「めくらやなぎと眠る女」は共にその後に発表される『ノルウェイの森』に組み込ました。ただし、多くの部分がそのまま使われた「蛍」と比べて、「めくらやなぎと眠る女」はかなり断片的であり、ストーリーには直接関与してきません。文中のその箇所を引用してみれば分かります。

「さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のことを思いだしてたんだ」と僕は言った。「昔キズキと二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる? 海岸の病院に。高校二年生の夏だっけな」

「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。「よく覚えているわよ。あなたとキズキ君がバイクに乗って来てくれたのよね。ぐしゃぐしゃに溶けたチョコレートを持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がするわね」

「そうだね。その時、君はたしか長い詩を書いてたな」

「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」とくすくす笑いながら直子は言った。「どうしてそんなこと急に思い出したの?」

「わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃とか、そういうのがさ、ふと浮かんできたんだよ」と僕は言った。

村上春樹 著(1987)「ノルウェイの森」講談社

たったこれだけです。それでもこの部分は重要だと思います。なぜなら村上さんが初版の「めくらやなぎと眠る女」を書いた時、まだ『ノルウェイの森』は書かれていなかった。彼が外国に出て『ノルウェイの森』を書き始めるのはこれを書いた約3年後です。

初版では主人公のワタナベやキヅキ、直子の原型は提示されていても、まだ明確に形作られてはいない。しかし改訂版の「めくらやなぎと、眠る女」では、明確にこれが『ノルウェイの森』から繋がる話だと意識し、そうなるようにチューニングされている。僕がこの2つを『中身は同じでも全く異なる作品』と言うのはそういうことです。

「ノルウェイの森」執筆時の約3年間にわたる村上さんの海外生活の記録です。

『ノルウェイの森、以前と以降』

「めくらやなぎと眠る女」を書いた時はまだ「物語」を掘り起こしている最中です。村上さん自身もこれは何だろうと考えながら書いていたことでしょう。そして幾つかのキャラクターやストーリーの断片が立ち上がり、一度そこで定着された。

それは約3年後、『ノルウェイの森』として再起動を始めます。その中でめくらやなぎは出てきません。しかし直子の死の原因が、彼女が断ち切ることのできなかった、過去の様々な呪いであることが徐々に浮かび上がってきます。つまり姿を変えて、めくらやなぎは描かれているのです。

「君は怯えすぎているんだ」と僕は言った。「暗闇やら辛い夢やら死んだ人たちの力やらに。君がやらなくちゃいけないのはそれを忘れることだし、それさえ忘れれば君はきっと回復するよ」

「忘れることができればね」と直子は首を振りながら言った。

村上春樹 著(1987)「ノルウェイの森」講談社

そして『ノルウェイの森』発表から約8年の時を経て書かれた「めくらやなぎと、眠る女」は『ノルウェイの森』のアナザー・ストーリーとして村上さん自身が明確に位置づけ、改訂を加えました。そう考えるとこの話は『ノルウェイの森』の前日譚であると同時に後日譚でもある。

つまりこれは主人公「僕=ワタナベ」にとっての「冥界巡り」です。起こってしまったキズキと直子の自殺、その源流を辿る旅なんです。そしてここでの「いとこ」とは黄泉の国への水先案内人であり、彼に導かれるように主人公は「二つの死の源=めくらやなぎ」へと遡っていきます

淡々としたストーリー進行とは異なり、とても辛い話です。なぜなら、それはもう取り返しのつかないことだからです。どれだけ悔やんでも彼らは帰ってはこないのですから……。その切なさが静かに胸を打ちます。

その2へ続く

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