「一人称単数」から始まった、村上春樹の新たな旅 — 「街とその不確かな壁」 — その4

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『第一部と、それ以降の違い』

今作は冒頭部では主人公「私」の生い立ちと「きみ」との出逢い、そして別れ、さらに壁の中の街での暮らしが交互に描かれていきます。正直この冒頭から単行本で185ページまでの「第一部」を読むのは個人的には少々キツかったです。

もちろん文章力も素晴らしいし、いつも通り「独自の世界」には引き込んでくれるのですが、とにかく社会的に記号化された村上節(ぶし)全開のキャラクター達の言動&行動にちょっと辟易としたのは事実です。そもそも、これまで村上さんは職業作家として、作品毎に新たなキャラクター像の創造を己に課してきたと思います。

例えば長編小説での前作に当たる『騎士団長殺し』では中年男性の家庭の崩壊と再生、そして子供を授かるというこれまでの作品にはなかった新たな展開がありました。

しかし、今作のキャラクター達はむしろ過去作品をなぞるように造形や言動、行動が先祖返りしている。けれど、これも全てを読み終えた後はむしろ必然だったんだなと思えました。なぜなら再三書いてきたように今作で村上さんが試みたのは、過去の罪や記憶との対峙、言い換えれば「己の過去との対話」だったからでしょう。

しかし「第二部」以降はグッと話が面白くなっていく。これに関してはあとがきにもあるように、「第一部」を書き終えた次点でいったんは「目指していた仕事は完了した」、そう思い筆を置いたそうですが、そこから半年後に「やはりこれだけでは足りない。この物語は更に続くべきだ」と感じ、続編に取りかかったとあります

このいったん書き終え、期間をおいた後に追加で書いていくというのは『ねじまき鳥クロニクル』や『1Q84』でも行われていますが、今作ではその立て付けが少々悪いと感じました。ぶっちゃけ第一部だけ、先に書いたようにちょっとつまんないんですよね……。

しかしこの第一部こそが「過去の亡霊との対話」という、今作における村上さん自身の個人的必然であり、何より「第一部での乗り越え」が済んだからこそ、第二部以降、作品は様相を変え、グッと面白くなっていく。そして第一部で決定されたスピード感の無さや冗長さが、トータル的な視点で見た場合、今作をより良いものにしている。

このある種の冗長さ、言い換えるならつまらなさが最終的に作品を素晴らしいものに変換している希有な小説があります。実は第一部ではその3に書いたように僕の頭の中で『街とその不確かな壁』は『ノルウェイの森』と強くリンクしていたのですが、第二部からはリンクする作品が変わりました。それは村上さんが最も敬愛する小説家、スコット・フィッツジェラルドの傑作『夜はやさし』です。

F・スコット・フィッツジェラルド/森慎一郎訳/村上春樹解説(2014)作品社

『今作は村上版、夜はやさし?』

今作はその1でも述べた様に、これまでの村上作品の長編と比べて、戦うべき明確な「悪の消失」と、それに伴う「冒険の消失」が大きな特徴として挙げられます。なのに単行本で650ページ超の分厚さがある。第一部では延々と壁の中の街での生活に加え、過去の記憶の掘り返しが行われ、第二部以降は、田舎での図書館館長としての長閑な暮らしがこれまた淡々と綴られている。

つまり「動き」が非常に少ない作品なんですよね。さらにその動きの少なさに合わせてテンポ感も非常にゆったりとしたものとなっている。まさに旧作『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』とは真逆の構造です。

言い換えるなら今、若い人たちの間で盛んに行われているコンテンツの早送り再生など「タイム・パフォーマンス」を重視する時代の流れとは逆行する作品なんです。けれど今作で村上さんはあえて、冗長でゆったりと、動きのない作品を志向したと思います。そしてその根底には『夜はやさし』があったのではないか?

ちなみに『夜はやさし』のあらすじを物凄く乱暴にまとめると、一人の、徳も器量もある優れた男が、ある女性との出逢いをきっかけとして、少しずつ着実に「駄目」な人間へ一歩一歩墜ちていく、その過程をとんでもないページ数を使って書き記した作品です。僕自身、初めて読んだ15年ぐらい前はなぜ、こんなことをこんなにも長いページを使って表現しなければならないのか? 最初は不思議に思ったものでした。

これに関しては村上さん自身も30年以上前、『夜はやさし』について語った以下の文章でも述べられています。

極端な言い方をすれば、この作品の特質は「コスト・パフォーマンス」の悪さにあると僕は思う。つまり小説の長さに比して、読者の得るものは相対的に少ないのである。だから読み終えた後に、なんだか肩すかしを食ったような思いを抱いてしまうことにもなりかねない。

〜中略〜

しかしそれにもかかわらず、この小説は不思議な「徳」を持っている。『ギャツビー』や数多くの優れた短編に比して完成度は一歩も二歩も譲りはするのだが、その完成度の低さ、あるいは「コスト・パフォーマンス」の悪さが逆にこの小説のたまらない魅力となっているのだ。

村上春樹(1991)「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」中央公論社

個人的に全く同感です。この「じっくりと時間をかけて、一人の素晴らしい人間が駄目になり、損なわれ、世界の片隅へと流されていく」何とも救いの欠片もない、冗長でダラダラとした小説が、不思議と読み手の心を温め、結果的に感動させるんです。そして僕自身なにより、こんなやり方で「感動」を与えてくれる作品に出逢ったことがなかった。まさにこれこそが村上さんの言う小説としての「徳なんでしょう。

村上春樹(2007)中央公論新社
引用したのは上記に収められている「夜はやさしの二つのヴァージョン」です。

つまり作品における「冗長さ=少しずつ人が駄目になっていく過程」を省略せず、じっくりと描いたことでこれまでにない傑作が誕生した。いわゆる昨今の「タイパ」とは無縁の作品ですが、時間に縛られない『小説』という媒体の特性を活かしきった作品だと、現在なら言えるかもしれません。

それは主人公の孤独な中年男性「私」の心の旅とでも言うべき本作、『街とその不確かな壁』においても同様です。丹念なひとつひとつの積み重ねが、彼の苦悩の深さをしっかりと伝え、クライマックスの飛翔の瞬間には「重し」となってグッと効いてくる。それにより感動が、より一層深化するのです。

加えて30年以上前に書かれた『夜はやさし』に関しての村上さんの文章で、もう一つ気になったのが以下の記述です。冗長さに加えて、『街とその不確かな壁』にも感じた、これまでの己の作品との違いを図らずも端的に述べていると思います。

小説をスタイルと精神性という古典的な二元論に単純化してしまうなら、『楽園』はスタイルが精神性を包含した作品であり、『ギャツビー』はその両者が絶妙なバランスをもって拮抗した作品であり、『夜はやさし』は精神性がスタイルを包含した作品である、という発想が彼の根本にある。

村上春樹(1991)「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」中央公論社

村上さん! 30年以上前にフィッツジェラルドを論じつつ、実は自身の作家としての「過程」を予言していたのではありませんか? と言うのも彼の一連の作品の流れが上記とぴったりリンクするんですよね。

『スタイルから、精神性へ』

スタイルが精神性を包含した作品とは言わずもがな、鮮烈な文体でデビューした『風の歌を聴け』以降の数作でしょう。これまでの日本文学に加え、世界文学にもない、まさに「新たなスタイル」でした。そのクールさに世間はビックリした。

発表当時は本当に鮮烈だったことでしょう。

しかし、そこに留まることなく、より大柄な作家になることを意識し、文体に加え、描く内容も深めていった結果、世界中が絶賛した大傑作『ねじまき鳥クロニクル』を誕生させ、ノーベル賞も噂される世界的作家にまで昇り詰めた。そして今作では遂に「精神性がスタイルを包含した作品」の段階へと入ったのではないか。

スタイル」ありきで、それが熱狂的に受け入れられ、世界的作家にまでなった村上春樹が「スタイル」ではなく「精神性」を前面に押し出してきた。それが今作と過去作品との一番の違いだと思います。

主人公=それなりに病んだ中年男性の「私」は、ただひたすら最後の飛翔の時を夢見て、鈍重にノロノロと歩み続け、いたずらに歳を取っていく。もし10代や20代の若い方が読んだら、それこそつまらない作品かもしれない。けれど50の境を超え、中年から老年に向けての一歩を踏み出した現在の僕にとっては静かに心に突き刺さる作品でした……。

もし今作を読んでつまらないと感じても、出来ることなら10年後、20年後に再読してみてほしい。『街とその不確かな壁』は間違いなく、読者が年を重ねれば重ねるほど「染みてくる」作品だと思います。

その5へ続く

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