「呪い」の時代の「祝福」へ。ジョジョリオンとは何だったのか? ─  その1

『多くの伏線が回収されない、謎だらけの迷作?』

最終巻が発売され、半年近くが経つ本作ですが、書かなきゃなぁ〜と思いながらもずっと手がつけられませんでした。理由としては「訳分かるか、こんなもん!!!」、それが嘘偽らざる正直な気持ちでした。回収されずに放置された伏線があまりに多く、敵キャラだった岩人間やラスボスの透龍(とおる)の背景もさっぱり分からない。

僕は本作が完結する前、2020年の6月の段階(最終巻発売は2021年9月)で一度、暫定的な考察を書いていますが、そこで書いていたことは結果として多くが間違っていました。当然、その修正もしなければならない。けれど書けない……。

僕はこれまで、これは良い作品だ、この作者は信じられる、あるいはこの作品には時間をかけて考察するに値する何かがある、そう『確信』できたものだけを当ブログに書いてきました。書き出す時に全てが見通せているわけではありません。書きながら考え、書きながら己の思い込みを修正し、粘り強く仕上げていきます。

さっぱり前へ進めない時や投げ出したくなる時もあります。そこで重要なのは先に述べた『確信』なんです。この作品には絶対何かある、この作者は絶対に大切な何かをこの作品に込めている、言い換えればその『信頼』があるからこそ、途中で投げ出さず、筆を進めることが出来る。

大きな謎として、この男は一体誰だったのか?
荒木飛呂彦 (2011) 「ジョジョリオン」 第1巻 集英社

結果的に僕は今作を全て読み終わった段階で、当初にはあった『確信』と『信頼』を一度見失ったんですよね。これは先に書いた多くの伏線放置に加え、様々な矛盾のせいです。これらに関してはネットを見ても、皆さん様々な意見を述べられていますが、率直に言って「訳が分からない……」というのが正直な感想なのだと思います。

ただし最近になって読み返していたら、初読時には読み取れなかったものが幾つか見えてきた。これなら書けるんじゃないか、そう思ったので今回、筆を執ることにしました。

『これは、呪いを解く物語』

今作も前作「スティール・ボール・ラン」と同様、第1巻の初めで物語を貫くテーマがヒロイン広瀬康穂の口からハッキリと述べられています。「これは、呪いを解く物語」という台詞はラストでも再び彼女の口から語られるので、その点では荒木さんは当初から何もブレていなかった事が分かります。それにしても「呪い」として、彼女の口から語られる言葉は随分と意味深長で哲学的です。

なお「ジョジョリオン」の「リオン」とは「祝福」であると荒木さん自身が解説で書かれています。つまり「呪い」からの解放こそが「祝福」であり、主人公である定助は「解放者=祝福をもたらす者」です。実際、彼は東方家とジョスター家(吉良家)、2つの家族の呪いを解きました。

荒木飛呂彦 (2011) 「ジョジョリオン」 第1巻 集英社

これは「呪い」を解く物語 ─

その始まり─「呪い」とはある人に言わせると、自分の知らない遠い先祖の犯した罪から続く「穢れ」と説明する。あるいは─坂上田村麻呂が行った蝦夷征伐から続いている「恨み」と説明する者もいる。また、違う解釈だと人類が誕生し、物事の「白」と「黒」をはっきり区別した時にその間に生まれる「摩擦」と説明する者もいる。

だが、とにかくいずれのことだが「呪い」は解かれなくてはならない。さもなくば「呪い」に負けてしまうか…。

荒木飛呂彦(2011)「ジョジョリオン」第1巻 集英社

荒木さんの考える「呪い」とは上記の言葉や物語の進行からも分かるように『先人達が犯した過去の過ち=負の記憶=歴史』の事なのだと思います。そして今作に隠された大きな呪いがまず最初に立ち現れます。それが象徴しているのは3.11の震災であり、その結果、今現在も続いている福島の原発問題です

『荒木さんを強く触発した3.11—その結果、見切り発車されてしまったジョジョリオン』

今作でまず出てくるのが奇妙な「壁の目」です。これは海に向かってまるで何かを守るように地面から大きく突き出ているとあります。明らかにあの時の津波と大きく連動しています。ちなみに物語の舞台「杜王町」は仙台がモデルであり、荒木さんの生まれ故郷でもあります。

壁の目は3.11の震災と同時に地面が隆起し、発生したとあります。そしてこの場所に踏み込んだ者たちの多くがスタンド能力を持ちます。つまりこれは前作『スティール・ボール・ラン』における「悪魔の手のひら」のようなものです。

荒木飛呂彦 (2011) 「ジョジョリオン」 第1巻 集英社

ジョジョリオン』を読み解く上でまずもって重要な出来事がこの3.11であり、なぜならこれからわずか2ヶ月後、2011年5月から連載は始まっているからです。本作は当初から「杜王町=荒木さんの生まれ故郷である仙台」を舞台に描くことが決められていました。そこであの震災と悲劇が起こった。その結果、あの一連の悲劇が作品に組み込まれることとなった。

結果として、今作における最後まで回収されない伏線や矛盾点の多さは、3.11に強く触発された荒木さんがその思いの丈を作品にぶつけようと、元々あった設定やストーリーに対して、震災の事象を組み合わせ、さらにそれらの細かな精査や調整をする前に作品を見切り発車させたから(連載の都合上、せざるを得なかった)だと考えられます

以前の評論でも述べたように、前作スティール・ボール・ランは現在の世界を支配する「アメリカ=民主主義」の成立の過程とその大きな原動力となった「資本主義とは何か?」を描ききった非常に社会的かつ緻密な作品でした。

その緻密さの要因はそれまで週刊少年ジャンプ(要は子供向けの少年誌)から、もっと読者年齢が上の月刊ウルトラジャンプ(青年誌)へと発表の場を移したことで、描くものの制約が減ったこと。それにより過去のJOJOシリーズと一端決別し、新たな世界軸で物語を描こうという高いモチベーションと、それを支える周到な準備があったからでしょう。

その緻密さが今回、見受けられなかったのは、3.11により、荒木さんの中に突発的に生じた「強い思い」が引き起こした、制作に到るまでの過程の違いなのだと思います。だからこそ今作はあまり細かなディティールは気にせず読むことをお勧めしますし、そうすることで逆に見えてくる「大きなもの」があります。

その2へ続く