「スティール・ボール・ラン」以降の「ジョジョ」の劇的な進化 ─ その1

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『進化し続ける作家、荒木飛呂彦』

僕は1973年生まれなので、1986年から連載スタートした「ジョジョの奇妙な冒険」はジャスト・リアルタイム世代です。ジョジョの前に連載していた「バオー来訪者」も大好きだったので、当初から注目していました。

しかし改めて凄いなぁと思うのは、このリアルタイムが僕が9歳の小学生だった当時から、46歳のおじさんになった今でも続いていることです。そしてまだ当分終わりそうな感じがしない。作者、荒木飛呂彦さんは本当に凄い人だと思います。

一人の作家が一つの作品を30年以上書き続けているのはもちろん驚きですが、それ以上に驚かされるのが、当初よりファン層を拡大し、新しい読者を常に増やし続けていることです。これは並大抵のことではない。長期にわたって連載が続くシリーズは幾つか存在しますが、基本的には旧来のファン層の定着&固着を第一義とし、彼らに向けて作品を作り続けるうちに、マンネリ化に陥っていくのが通例です

分かりやすいのがTV時代劇ですね。もう打ち切られましたが「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」などが挙げられます。これらのシリーズはマンネリ街道を突き進み、やがてファン層の減少、要はご高齢者向けの作品だったので、彼らが亡くなるにつれ、視聴層がいなくなり、かといってもう新たなファン層を取り込むことも出来ず終焉の時を迎えました。

でも荒木さんはそうならなかった。なぜでしょう? ちなみに当時ジョジョを連載していた国民的漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」には「ドラゴンボール」という、漫画家のキャリア形成について深く考えさせられる、ある問題が存在していました。

『ドラゴンボール問題に見る、連載漫画の引き際とは?』

作者である鳥山明さんとファンの方には申し訳ないですが、僕は「ドラゴンボール」もリアルタイム世代だったので、もう①マンネリの極地 & ②強さのインフレーション】という二大問題にぶち当たり、かといって連載を打ち切ることもできず、あの名作がつまらない「商品」へと堕ち続けていくのを、痛々しい思いで見ていました……。

この前例があるからこそ同じジャンプ連載だった「スラムダンク」の井上雄彦さんは山王戦の後、スパッと作品を打ち切る決断ができたのでしょうし、それゆえ大傑作として人々の記憶に残り続けているんだと思います。

「ピッコロ大魔王編」から「フリーザ編」までは最高だったんですが……。

そして荒木さんが凄いのはこの二大問題を回避し続けながら、いまだにジョジョ・シリーズを描き続けていること。大枠ではジョジョの世界観をキープし、従来のファン層を維持し続けながらも、新しいことにも挑戦し、新規のファンも獲得していく。この二つの相反することを同時に成し遂げていることです。これは歳を取れば取るほど分かりますが、本当に難しいことです。

『スタンドという、唯一無二な発明』

1作目「ファントムブラッド」を経て、2作目の「戦闘潮流」、そして3作目の「スターダストクルセイダース」までの荒木さんは王道的な少年漫画として、この作品を描き続けてきたと思います。舞台設定も第1部ではイギリス国内に限られていたのが、2部ではアメリカ、さらにヨーロッパへ。3部では欧米圏を離れ、アジアからインドを経て中近東までの、いわゆる第三世界を旅しました。

つまり少年漫画の王道として「活躍の舞台=領土」を順調に拡大していった訳です。加えて波紋(はもん)」という能力を「幽波紋(スタンド)」という新たなステージへ進化させました。これは「スターウォーズ」における「ライトセーバー」と同様の一大発明だと思います

毎回変わるストーリーやキャラクターという表層を剥ぎ取った構造的な部分で「スターウォーズ」が他のSF作品と何が決定的に違うのか? どうしてこんなにも長い間人気を保ち、シリーズとして作り続けることが出来るのか? もしこんな質問をされたら、僕はシンプルに一言「ライトセーバーがあるから」そう答えます。

Star Wars:The Force Awakens (2015) Walt Disney Studios Motion Pictures
スターウォーズ=ライトセーバーである。メインビジュアルからもそれが見て取れます。

テクノロジーの世界だと思われていたSFに「剣」という極めてアナログなアイテムを持ち込んだこと、それによって肉体のぶつかり合いと、戦闘シーンの多様化が加わり、スターウォーズは他のSF作品と「決定的な差別化」を果たしました。さらにそれはビジュアル的にも非常に洗練されていた。漆黒の闇を背景にライトセーバーを打ち合う主人公たち、このシーンはどのエピソードでも毎回繰り返されますが、それこそがスターウォーズの根幹を成すものだからです。

こんな途方もないアイデアは十数年に一度しか発明されません。そして荒木さんもそんな大発明を果たします。それがスタンドです。スタンド」とはこれまでは目に見えないものとされてきた「超能力の可視化に他なりません。ここまで長い期間、ジョジョを作り続けることができた最も大きな理由として、この世紀の一大発明がまず挙げられると思います。

荒木飛呂彦(2002)「ジョジョの奇妙な冒険」 
第10巻 集英社文庫

『マンネリと、強さのインフレにどう対抗するか?』

順調に進んできたシリーズですが、おそらく荒木さんは第3部の「スターダストクルセイダース」を描き終えて「ヤバイ」と思ったのだと確信します。ここが凄いです。なぜなら3でスタンドという世紀の一大発明を果たし、人気も絶頂です。そんな時期にこのままではもうこのシリーズは続けられない、そう思える感覚が凡人とは異なるところでしょう。

「ヤバイ」理由のひとつ目、それは「活躍の舞台=領土」問題です。順調に世界を広げてきたジョジョですが、これ以上、単純な世界の拡大ではすぐに行き詰まってしまう。イギリス→アメリカ→ヨーロッパ→アジア→インド→中近東。次はアフリカ? それとも北欧? じゃあその先は? ジョジョはドラゴンボールではありませんから宇宙へ飛び出すわけにもいかない。

ここで荒木さんは逆転の発想に出ます。第4部の「ダイヤモンドは砕けない」では、世界をあえて「小さく」設定し、読者にとっても身近な日本のローカルな街=杜王町へと切り替えたのです。それはこれまで「外へ」と向かっていたベクトルを「内へ」とチェンジしたことに他なりません。

つまり「活躍の舞台=領土」が外なる「世界」から、人間の「精神」へと移り変わったということです

『外部世界から、精神世界へ』

3部でのスタンドはタロットカードにより割り当てられた、ある種の選ばれし者だけが使いこなせる能力でした。しかし4部ではどんな者たちでも一定の割合でこの力を使えるようになった。そして重要なのは3ではタロットカードという天の啓示によって授けられたスタンド能力が、4では個人のトラウマや欲望を色濃く反映したものとなった。つまり「個人の精神性の具現化=スタンド」になったということです。

例えば「間田敏和」は人を自分の思い通りにしたいという欲望を持っており、そんな彼のスタンド「サーフェース」は人を操り人形にしてしまう能力です。

リアリティのある作品を描く為、人の秘密を知ることについて異常に興味のある漫画家「岸部露伴」のスタンド「ヘブンズ・ドアー」は対象となる人の人生を本にして自由に読める能力。

荒木飛呂彦(2004)「ジョジョの奇妙な冒険」 
第21巻 集英社文庫

さらに他人が恐怖する姿を観察することに悦びを見いだす「宮本輝之輔」においては 、個人が持つ恐怖のサインを彼が見抜いた上で相手に示させ、紙に閉じ込める「エニグマ」という、何とも歪んだ能力でした。

大切なのはこれらの登場によって「強さ」の定義が変わったということです。3では純粋な「戦闘力」が戦いの結果を左右した。しかし上記スタンドの登場でこれまでの格闘技的な戦闘は殆どなくなり、代わって増えたのが互いの知性を駆使し、弱点を探り合う知能戦です。

つまり絶対的」だった強さが「相対的な(他との関係性において成り立つ)」ものへと変容された。これによりジョジョ・シリーズは「強さのインフレ」という、少年漫画誌特有の病を回避することができました。

『道徳=社会の外へ』

そんな人間の「精神世界」を描いていく中、荒木さんは「吉良吉影(きらよしかげ)」という殺人鬼を創造しました。吉良はどうしても人を殺さずにはいられない性(さが)を背負ってこの世に生まれてきた人間です。この世界において「法律」以前に人類共通の根本的な「道徳」として、人は人を殺めてはなりません。つまり「道徳」とは人としてこの世に生まてきた際に、強制的に社会と結ばされる一方的な「契約」です。

しかし、吉良はどうしてもこれを受け入れることが出来ない、つまり見方を変えれば、不幸な人間です。しかし彼は文句も言わず、好きなように人を殺しながら自分なりの人生を謳歌している。この「吉良吉影」の創造こそ、スタンドの発明に続く、荒木さんの作家としての一大ターニングポイントだったと思います。

その2へ続く

荒木飛呂彦(2004)「ジョジョの奇妙な冒険」 
第23巻 集英社文庫
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