「スティール・ボール・ラン」以降の「ジョジョ」の劇的な進化 ─ その2

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『少年漫画の、その先へ』

第4部の「ダイヤモンドは砕けない」における吉良吉影(きらよしかげ)は悪人なのでしょうか? これは一般的な回答としては当然YESでしょう。なぜなら彼は己の快楽で人を殺す殺人鬼です。しかし、当事者である彼の立場で考えると? 僕はその1で『人は人を殺めてはならない、それは人類共通の「道徳」である。そして「道徳」とは人としてこの世に生まてきた際に、強制的に社会と結ばされる一方的な「契約」である』と書きました。

荒木飛呂彦(2004)「ジョジョの奇妙な冒険」
第23巻 集英社文庫

しかし自然界に目を向ければ、動物や昆虫など、同じ種族内での殺し合いや共食いは日常茶飯事です。つまり「殺人」を「罪」と規定しているのは人間だけだと言うこと。これは人間の遙か祖先が過酷な自然界を生き抜いていく上で集団を作り、皆で助け合って生きていくことを生存戦略の根幹に据えた時に決定されたものでしょう

つまり「人を殺さない」とはイコール「人間であること」と同義だとも言えるのです。だからこそ人外の存在として殺人者は排除されなければならず、通常の少年漫画なら正義の味方=主人公が悪の権化である殺人者を追い詰めていく、そのような構図となるでしょう。

しかし、この「ダイヤモンドは砕けない」の中で荒木さんは明らかに吉良吉影の立場に寄り添ってしまっている。実際、漫画内でこのような彼の悲痛な叫びを描いています。

だが、わたしには勝ち負けは問題ではない……。
わたしは『生きのびる』……
平和に『生きのびて』みせる。
わたしは人を殺さずにはいられないという『サガ』を背負ってはいるが ……

『幸福に生きてみせるぞ!』

荒木飛呂彦(2004)「ジョジョの奇妙な冒険 第24巻」集英社文庫

吉良はなりたくて殺人者になったのではありません。彼はそのような「サガ」を背負って仕方なく生まれてきてしまったある意味で不幸な人間なのです。もしあなたが人を殺すことでしか「幸福」になれないのだとしたら、この「人を殺してはならない世界」は地獄であり、正義の味方とは悪魔のような存在でしょう。

しかし、彼はそんな世界で全ての人間を敵に回しながらも己の幸福を追求している。荒木さん本人の口から語られているように、ジョジョ・シリーズの一貫したテーマとは「人間賛歌」です。だからこそ吉良のような人間もまた賛歌しなければならない。こんなの小学生を明確に読者とターゲティングした、少年漫画誌の範疇から完全にはみ出てしまっています。少年漫画作家としてはアウトでしょう。ここから荒木さんの真の「成長」と「苦悩」が始まったのだと思います。

この第4部において、荒木さんの描きたいものが、それまでの少年漫画誌と分離し始めました。

『少年漫画で、悪を描く』

第4部以降の荒木さんですが、5部の「黄金の風」では主人公たちをマフィアのギャングに。6部の「ストーンオーシャン」では犯罪者を収容する刑務所が舞台となりました。つまり常に「悪」とは何か?「正義」とは何か?が突きつけられることとなります。しかし少年漫画としては、主人公は分かりやすい正義の味方という立場をキープしなければならない。でも荒木さんの真に描きたいものはそこではない。

ここで荒木さんは【表主人公と裏主人公を並列させる】という戦略を採ります。多くの物語において主人公=作者の投影であることが殆どですが、少年漫画誌的な正義の味方に興味の持てない荒木さんは、主人公とは別に自らが思い入れを持って描けるキャラクターを創り出しました。5部において、それはギャングのリーダー「ブチャラティ」です

彼は仕方なく「悪」の道へ踏み込まざるをえなかった人間であり、そんな自らの行いを「覚悟」を持って受け入れているものの、同時に罪の意識にも苛まれています。そして己をそのような立場へ追い込んだ「運命」との戦いを強いられ続けます。

5部の「黄金の風」とは「悪」を憎みながらも「悪」の淘汰の為に、あえて「悪」に染まらざるを得ない、そんな「運命」に翻弄されながらも、己の信じる道を歩み続けたブチャラティの行いを、主人公であるジョルノ・ジョバァーナを狂言回しにして描いたものであると思っています。

荒木飛呂彦(2005)「ジョジョの奇妙な冒険」
第33巻 集英社文庫

『精神=スタンドの暴走』

一方、第6部は主人公、空条徐倫(くうじょうじょうりん)に対し、裏主人公はブッチ神父です。しかし構造的には、より複雑です。5部では表主人公のジョルノと裏主人公のブチャラティは常に行動を共にしますが、6部では前半のグリーン・ドルフィン刑務所内においての主人公は徐倫であり、後半、刑務所を出てからは主人公がブッチ神父に切り替わります。つまり2部構成であり、主人公のスライドです

前半は追われる立場だった徐倫が後半では追いかける側にまわる一方、前半では追いかける側だったブッチ神父が後半では追われる立場となります。それに対応して「視点」も徐倫中心だった前半から、後半ではブッチ神父中心へと切り替わっています。

僕はその1で第4部以降では活躍の舞台=領土」が外なる「世界」から、人間の「精神」へと移り変わったと書きましたが、その「精神」の終着点として、ブッチ神父はなんと「天国」を目指します。これは実際にセリフとして「天国」の存在を彼に示唆したディオ・ブランドーの口から語られています。

わたしの言ってる「天国」とは「精神」に関することだよ。精神の向かう所……。死ぬって事じゃあない。精神の「力」も進化するはずだ。そして、それの行きつく所って意味さ。

〜中略〜

真の勝利者とは「天国」を見た者の事だ……。どんな犠牲を払っても、わたしはそこへ行く。

荒木飛呂彦(2008)「ジョジョの奇妙な冒険 第43巻」集英社文庫

「スタンド」とは「精神の具現化」であり、だからこそ「精神の行きつく所=天国」を求めて、刑務所を出てからのスタンドは一斉に「暴走」を始めます。時間、空間、重力……。もう何でもありです。

その結果、ブッチ神父のスタンド「メイド・イン・ヘブン」は重力の力で時を加速させ、一度この世界を終わりまで進めた後、新しい世界を再創造する、そんな滅茶苦茶な能力を持ってしまいました。ここにおいてスタンドは最終進化形まで行き着いた。これを読んでいた当時、失礼ながら僕は荒木さんは頭がおかしくなったんだと思っていました。

実際これは暴走以外の何物でもない。ここまでスタンドの領域を広げてしまえば、もうジョジョ・シリーズを描き続けるのは不可能です。せっかく「強さ」のインフレーションを回避し、ここまできたのに荒木さんは突如、スタンドの「強さ」を行き着くところまでハイパーインフレ化させてしまった

そして世界は一周し、物語は終焉の時を迎えます。書いている荒木さんもそうだったと思いますが、読んでいる僕らも共に燃え尽きた……。そんな風に感じたのを今でも覚えています。

荒木飛呂彦(2009)「ジョジョの奇妙な冒険」
第50巻 集英社文庫

『舞台は青年漫画誌へ』

ジョジョは終わった……。みんなそう思っていたのに荒木さんは世界設定を一から変えて、シリーズを再始動させます。正直、当時の僕は失望を覚えました。大変失礼な言い回しですが、荒木飛呂彦も鳥山明になった、そう思っていました。しかし読み進めるうちにそれは大きな間違いであったことに気づきます。

第4部から7部まで、人間の「精神世界」をスタンドという形に置き換え、表現を続けていた荒木さんは既に別のステージへ到達していました。そこで重要なのは小学生をターゲットとしなければならない少年誌「週刊少年ジャンプ」から、もっと上の年齢層をターゲットにした青年誌「月刊ウルトラジャンプ」へと活動の場を移したことです。

そして新シリーズ「スティール・ボール・ラン」以降において、荒木さんが明確に意図したのは自ら作るフィクションの世界に、実際に今、僕らの身の回りに存在している「世界の歴史」を組み込むということでした

その3へ続く

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