「機動戦士ガンダム」は母殺しの物語である ─ その5【完】

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『家族=束の間の安息を得た、アムロ・レイ』

幾多の苦難を経て、アムロは最後で遂に求めていた「家族」を手に入れます。それは他でもない、これまで一緒に戦ってきたホワイトベースの仲間たちでした。ア・バオア・クーの底で一度は死を覚悟した彼でしたが、カツ、レツ、キッカらに導かれ、帰還を果たします。その時、宇宙の暗闇に瞬く、仲間たちの放った、自分を呼ぶ光を見て呟くのです。

「ごめんよ……まだ僕には帰れる所があるんだ……。こんな嬉しいことはない。分かってくれるよね? ララァにはいつでも会いに行けるから……

機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹
「アムロを迎えるホワイトベースのクルーたち」
機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編
(1982)日本サンライズ/松竹
「ホワイトベースの仲間たちこそ、
求め続けた【家族】だと気づいたアムロ」
機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編
(1982)日本サンライズ/松竹

本当の父や母も棄て、尊敬した男、ランバ・ラルを倒し、自らの刃でやっと巡り会えた本当の仲間=ララァすらも殺してしまう。そんな地獄巡りを遂げても、自分にはもう帰る場所がない。何もかも無くしカラッポになってしまった……。しかしその刹那、彼はようやく束の間ではあるものの安息の地=家族を見いだすのです

これは新カットも追加された映画版「機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙(そら)編」で最高に素晴らしく描かれています。ラストシーンではそれまでガチガチに強ばって、必死で戦場を生き抜いてきたアムロが全身の力を抜き、何か大きなものに抱かれるように静かに落下していきます。小学生時代に映画館で見て、身震いするほど感動しました。アニメ映画史上に残る最高のシーンの一つだと思います。

「全身の力を抜き、仲間の元へ漂うように
降下していくアムロ」
機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編
(1982)日本サンライズ/松竹
「彼は遂に家族=束の間の安息を手に入れた」
機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編
(1982)日本サンライズ/松竹

『戦前から今まで続く、姿を変えた呪いとは?』

それではアムロに対し、シャアはどうだったのでしょうか? 僕はその3の中で本作の本当の主人公は彼であり、富野さんが作中に紛れ込ませた己自身なのだと書きました。

彼はアムロのように倒すべき壁=「父」を抱くことができない結果、「母」から自立できない、ある種の精神的未熟児となってしまった。これは「強い父」を抱けなかった団塊世代の病のようにも見えますが、実はそれが本当に顕在化したのはむしろ彼らの子供である、僕ら団塊ジュニア世代以降ではないでしょうか

アニメがカルチャーとして発展を遂げた結果、それは富野さんが目指した「リアル」なものでなく、むしろビジュアル的には幼児化しました。女は少女へ、つまりロリコン化したのです。

これは単純に一元化できる問題ではない(でも、某国民的アニメーション作家の影響は大きい)し、僕自身詳しくないので、これ以上の言及は避けますが、商品化された一見無力な「少女」によって男性は当然のことながら、実は女性たちも意識的、無意識的に「性」をスポイルされている。アニメとは子供たちにとって一種の教科書であり、強烈なインプリンティング(刷り込み)効果があると思います

一例として日本のアイドルたちは韓国や欧米のそれと違って、高い歌唱やダンスのスキルは求められません。彼女らは言い換えれば「成熟を否定」されているとも言える。だからこそ「成熟」が見え始めると自主的であれ、強制的であれ「卒業」させられる。

そして人生の最も苛烈で華々しい「青春」を焼き尽くされるのです。これは団塊世代に端を発し、僕らの世代以降、延々と形を変えて続く「呪い」なのではないでしょうか。これは大げさではなく日本人が考えるべき、非常に大きな問題だと思います。

『シャア・アズナブルの果たしたもの』

それでは最後に本作の真の主人公、シャア・アズナブルはこの物語の中で何を得たのでしょう。彼はガルマとキシリアを殺し、ザビ家を崩壊に導く。つまり初期の目的は遂げたわけです。けれどここで重要なことは彼が嬉々として彼らを殺したのではないということです。

今回、一から本作を見直した上で、昔と最も印象が変わったキャラが実は彼です。シャアと言えばニヒルで冷徹なキャラだというイメージがありますよね。特にそれを象徴しているのが以下の有名な台詞でしょう。

「諸君らの愛してくれた、ガルマ・ザビは死んだ、なぜだ!」

「坊やだからさ……」

機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹

これはTVCMや多数のギャグでも用いられたので、シャアと言えば、すっかり相手を小馬鹿にするイメージが浸透してしまいました。しかし、実際のシーンを見れば分かるのですが、彼はギレンの演説を聴きながら明らかに苛ついています。象徴的なのがグラスを何度も神経質に指で叩くカットです。

そして「坊やだからさ」のセリフもガルマを嘲笑するのではなく、明らかに「怒り」を叩きつけるように発せられている。そしてヤケ酒をあおるように一気にグラスを空にするのです。そうです、彼は自分自身に苛ついているのです。

「苛立ちをグラスに叩きつけるシャア」
機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹
「その後一気に酒をあおるが笑顔はない」
機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹

どうあれ青春期と呼べる時期を友として一緒に過ごしたガルマ。その友を殺したことに猛烈に嫌気が差している。けれどもう後には引けません。この後、キシリアの手の者が彼を味方に引き入れにくるシーンは象徴的です。当然断れば自身の命はない。だから従うしかない。覚えていますか? シャアとは「母性=女性」の呪縛から脱却できない男なのです。

ここで気づかされたこと、それは父を持たず、母から卒業できない男性像というのは、実は現代日本の多くの男たち(僕も含めて)の真の姿ではないかと言うこと。そして、その病の発端があの戦争だったと言うこと

『母からの卒業』

だからこそラストシーンには鳥肌が立ちました。彼は最後に己を捕らえていた「母性=女性」との決別を果たすため、キシリアの首を落としたのではないでしょうか。そうです。アムロが「父殺し」を果たすことで大人になったように、彼は「母殺し」を果たすことで、その先へ行こうとしたのだと思うのです

「父」を持たず、精神的未熟児だったシャア・アズナブルは最後にようやく乗り越えるべき壁、すなわち「母」の姿を見いだし、立ち向かったのです。

「最後の最後でようやく彼は母殺しを遂げる」
機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編
(1982)日本サンライズ/松竹

機動戦士ガンダム」とは少年が「父殺し」の果てに成長を遂げるという、古典的な神話に加えてもう一つ。父を持たず、その結果、母性に絡め取られてしまった未熟な男が「母殺し」の果てに呪いを解き、その先へ行こうとする「もう一つの神話」が層を成しています

これこそが本作の真の凄さであり、これは団塊世代の親たち、すなわち戦争で傷つき、親であることを放棄した彼らの振りまいた「呪い」からの脱却を希求した、富野由悠季という一人の作家の姿を変えた戦争だったのだと思います。そう考えるとシャアの最後の台詞がやけに染みてきます。

「ガルマ、私の手向けだ……。姉上(すなわち母)と仲良く暮らすがいい……」

機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹
機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編
(1982)日本サンライズ/松竹
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