『ランバ・ラル編以降のストーリーの変化』
「機動戦士ガンダム」の前半部は「父殺し」という通過儀礼を経て、少年が大人になるという古典的な「神話」であるとその2で説明しました。加えて主人公のアムロ・レイがこの一連の物語の中で何を求め、何を得たのか? それは「本当の父、さらに本当の家族」であり、この獲得の過程が2部構成に分かれて展開されていくとも述べました。
この2部構成の折り返し地点がちょうどランバ・ラル編の終わりとなります。アムロはラルという「本物の男=父」を倒すことで、少年時代を卒業し、次なるステージへ移行しました。
ここで象徴的だったのが、それまでに「父」とまでいかなくとも「兄」として、己を支えてくれたリュウの死です。やはりここで富野さんはアムロの庇護者をなくし、独り立ちさせたかったのでしょう。
さらにここからアムロ中心だったストーリーが大きく変化します。具体的にはアムロが狂言回しとなり、代わりにホワイトベースのクルーらが前面に出て、彼らの成長や変化の過程が描かれていくのです。
- ミハルの死を経て、アムロ同様に少年期を卒業し、大人へと成長していくカイ・シデン。
- 兄であるシャアとの関係に悩むセイラ・マス。
- ブライトとミライ、スレッガーの三角関係。
- アムロという天才に引き離され、不甲斐ないと悩むハヤト。
- アムロは手の届かない、別世界の人間だと諦観を抱くフラウ・ボゥ。
これはなぜか? それはアムロにとってホワイトベースの面々こそが辿り着くべき真の「家族」だからです。これはエンディングを見てもらえば分かります。だからこそアムロ同様、彼らもまた成長しなくてはならない。そうでなければアムロと釣り合いが取れない。
だからこそランバ・ラル編以降、ベルファストやジャブロー編では彼らが実質的な主人公となっていくのです。狂言回しだったアムロが再び主人公に戻るのは、宇宙(そら)に上がってララァと出会う辺りからです。
『ララァ・スンとは何か?』
ララァとはアムロとシャア、2人の間に立ち、2人から愛され、かつ2人を分かち、戦わせる存在、すなわちファム・ファタール(運命の女)です。けれどイマイチ掴み所のないキャラクターでもある。富野さんがどのような意図を持って彼女を配したのか? 何と言っても彼女はガンダム史上、非常に重要なキャラクターです。
誤解を恐れずに言えば、ララァは男から見て非常に「都合のいい女」です。今回改めてこのキャラは何者なのだろう? そう考えた時にパッと思い浮かんだのが映画「セーラー服と機関銃」でした。若い方々は知らないと思いますが、公開当時の1981年、記録的な大ヒットを飛ばし、主演であった薬師丸ひろ子の人気を決定づけました。
そこで彼女が演じたのが星泉(ほしいずみ)というキャラであり、一言で言えば「処女であり少女、恋人であり娼婦、そして母」という、男が女性に求める役割を全て担わされました。まさに男性にとって究極的な「都合のいい女」です。
『時代に即して、女性をどう描くのか?』
ガンダムは小学生向きTVアニメなので、性的な描写は匂わす程度に薄められているものの、ララァも基本的には同じだと思います。ただし大きく違うのはシャアは自分に恋心を抱いてくれる彼女に対して「男」として接しようとしません。代わりに彼女を「母」として見ている。映画「逆襲のシャア」では以下の有名なマザコンセリフまで飛び出しています。
「ララァ・スンは、私の母になってくれたかもしれなかった女性だ!」
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(1988)日本サンライズ/松竹
一方、アムロは彼女を「女」と言うより、精神的同士として見ている。つまり彼らにとってララァとは見方は違えど「可愛い女神様」なのです。だから一人の「男」として彼女に向き合おうとしない。これはある種の「不能(インポテンツ)」です。
そのくせ高邁な理想論=ニュータイプ論を聞かせ、彼女を争いの渦中へと巻き込んでいく。こう書くと偉そうですが、大傑作である「機動戦士ガンダム」の中で唯一消化不良のまま残されたのが「彼女の存在=女性の描き方」なのだと思います。
それらに対する反省なのでしょう、富野さんがこの後に作った「機動戦士Z ガンダム」では一応カミーユ・ビダンという主人公がいるものの、実際のところは群像劇的な造りとなっており、そんな中、多数出てくる女性たちこそが本当の主人公なのだと思います。
彼女らは自らの意思で戦い、そして散っていく。キャラ設定も豊富で、いわゆる「女神役」を担わされるだけだったララァとは雲泥の差があります。ちなみにZガンダムの放映開始は1985年。これは日本社会において「男女雇用機会均等法」が制定された年でもあります。
『シャア・アズナブルという病』
「父殺し」を行うことで少年期を脱したアムロに対し、乗り越えるべき「父」を持たなかった&持てなかったシャア。彼はランバ・ラル編以降、成長し続けるアムロからどんどん離され、負け続けます。いい歳した大人のくせに「母」を求め続ける未熟児である以上、当然の報いなのでしょう。
しかしこれは「強い父」を持てなかった自分たち団塊世代に共通する事象ではないのか? 富野さんはそう考えたのだと思います。そして「父不在という呪い」を背負い、その結果、「母性からの卒業ができない」=「精神的未熟児という同世代の病」を、シャア・アズナブルというキャラに託したのではないか。
「機動戦士ガンダム」とは、ジオン軍のエースだった彼が落ちぶれていく己に対し、あがき続ける物話でもあるのです。
その5へ続く