「機動戦士ガンダム」は母殺しの物語である ─ その2

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『アムロ・レイが求めたもの』

「機動戦士ガンダム」のストーリー・ラインを紐解いていくと面白い事が分かります。まずは主人公であるアムロ・レイです。彼はこの一連の物語の中で何を求め、そして何を得たのでしょうか。これが分かると富野さんたち「団塊世代」の心情が透けて見えてきます。冒頭でいきなり結論を述べますがそれは「本当の父、そして本当の家族」なのだと思います。これが2部構成に分かれて展開されていくのです。

まずアムロには生物学的父であるテム・レイと母カマリア・レイがそれぞれきちんといます。しかし、アムロは彼ら2人に対して全くシンパシー(共感)を感じていません。不可抗力とは言え、爆風で父を宇宙空間に吹き飛ばしてしまい、その結果、彼は酸素欠乏症による記憶障害を引き起こしてしまいます。

その後サイド6で再会を果たしますが、呆けてしまった父を哀れみ、アムロは逃げるように去って行きます。これは母に対しても同様です。一度、地球で再会したものの「お元気で」の一言を残し、これまたあっさりと振り返ることなくホワイトベースへ戻るのです。

「酸素欠乏症で惚けてしまった父」
機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹
「振り向こうとしない息子に泣き崩れる母」
機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹

『彼らが求めた、倒すべき父親像』

生物学上の本物の両親がいるにも関わらず彼らとは別の「本当の親」を求める。なぜこんな歪(いびつ)なことが起こるのでしょう? それはやはり「団塊世代」の両親が「沈黙」することで何も教えてくれず、それどころか何か悪いことをしても叱ってさえくれなかったからでしょう

それは子供らにとってはふがいないと同時に、自分たちは愛されていない、すなわち愛情の欠落だと感じてしまう。以下の有名なセリフは雄弁にそれを物語っています。

「二度もぶった! 親父にもぶたれたことないのに!」

機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹

だからこそ、彼らは本気で自分たちにぶち当たってくれて、時には叱ってくれる。さらに大きな「壁」として立ちはだかり、その結果、「成長を促してくれる存在=理想化された親」を潜在的に求めていたのでしょう。何より自らの親たちが口を閉ざして語ろうとしない「戦争の記憶」をしっかりと語ってくれる「本当の親」を必要とした。それが本作におけるランバ・ラルです

彼は戦闘能力は無論のこと、男っぷりや部下からも慕われる人間としての器の大きさ、横にはハモンというこれまたいい女までいる。それら全てを目にしたアムロは「感動」し、一人の男として「惚れ」、乗り越えるべき「父」として崇めるのです。

「いい目をしているな、小僧。それに度胸もいい。ますます気に入ったよ。アムロとか言ったな」
「はい……」

機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹
「尊敬できる大人の男、ランバ・ラル」
機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹

初めての出逢いでアムロは何より「男」としてラルに完敗します。初めて知った「尊敬できる本物の男」。だからこそアムロは彼にライバル心を燃やします。それまでは嫌々モビルスーツに乗っていたにも関わらず、ここで初めて主体的に「戦う」ことを選択するようになるのです。

そして一度は勝つ。けれどもラルはそれはお前の力ではないと告げる。ガンダムというモビルスーツのお陰だと……。だからこそ以下の独房内でセリフが出てくるのです。それまで無目的に生きてきたアムロが遂に乗り越えるべき「父」を発見し、それに立ち向かうことを決意する出色のシーンです

僕は……あの人に勝ちたい。

機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹
「越えるべき父を遂に見つけたアムロ」
機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹

『本当の父が語る、戦争の記憶』

そのアムロの想いに応えて、ラルは戦争が如何なるものかを彼のみならず、ホワイトベースの乗組員みんなに身体を張って教えます。これまではモビルスーツのみの戦いでしたが、ラルは最後に白兵戦を挑んできます。

つまり「人を殺す」ということに実感が伴わない機械同士の戦いではなく、生身の肉体のぶつかり合いによって「戦争」とは何かをアムロらの胸に刻みつけようとするのです。そして最後に手榴弾を抱えて自爆死します。彼が息絶え、爆発するのはガンダムの手の中です。つまりアムロの手に「父」の血痕が刻み込まれたのです。

「君たちは立派に戦ってきた。だが兵士の定めがどういうものか、よく見ておくのだな」

機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹
「自死しようと手榴弾を取り上げるラル」
機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹
「彼は息子=アムロの手に戦争を刻みつける」
機動戦士ガンダム(1979)日本サンライズ/松竹

『父さん、俺を見てくれ! 俺を本気で殴ってくれ!』

実はこれこそが富野さんたち、団塊世代が本質的に求めていたことだと思います。彼らが行った学生運動も潜在的には「父さん、俺らにかまってくれよ」=「愛して欲しい」、そんな想いが多分に含まれていたのではないか。しかしそんな甘えの構造に加え、そもそも真綿に包まれ、ぬくぬくと育った世代です。

「学生運動=政治」というのは組織の構築に加え、結果にコミットするための現実的な視座なくして成立はしない。だからこそ「理想」だけで突っ走った彼らは失敗した。富野さんはその挫折の記憶に加え、その時、自分たちが何を考えていたのかを子供世代である僕ら団塊ジュニアにアニメというやり方で見せてくれたんだと思います。

ちなみにこのランバ・ラルとの戦い以降で興味深いことがあります。それはこれまでライバル的存在だったシャア・アズナブルに手も足も出なかったアムロが、ジャブローで再開し、一戦まみえた際には完勝します。つまり力関係が逆転するのです。なぜなのでしょう?

それはアムロが「父殺し」という通過儀礼を経て「大人の男」になったからです。「機動戦士ガンダム」の前半部で描かれているのは「父殺し」という通過儀礼を経て、少年が大人になるという古典的な物語であり「神話」なのです

それに対して、これは後で詳しく述べますがシャアがアムロに勝てず、これ以降どんどん差が開いていくのはなぜか? それは彼が「父」を持てなかったこと、言い換えれば乗り越えるべき本当の「壁」を自覚できなかったことなのでしょう。そしてこれは団塊世代が味わった悲劇とも直結し、その影響は僕ら団塊ジュニア世代にも降りかかっていると思います。

その3へ続く

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