「ファイト・クラブ」が炙り出す、男に生まれるとは如何なることか? ─ その4【完】

『暴力=父の呪い』

パラニュークが本作で夢見たもの。それは男たちが皆、己の肉体を互いの拳でもって徹底的に痛めつけ、その結果、己がただの「物質」に過ぎないと理解すること。世界を受容し、敗北を受け入れ、それによって資本主義からの逃走を果たすことでした。しかし彼がもう一つ執拗にこだわった点があります。それが「父」の存在でした。

ファイトが終わったとき、何一つ解決してはいなかったが、何一つ気にならなくなっていた。ぼくらが初めて闘ったのは日曜の夜で、タイラーはその週末一度も髭を剃っておらず、その無精髭がこすれたぼくの指の関節はひりひり痛んだ。ぼくは駐車場であおむけに寝転がり、街灯の明かりに負けずに輝く唯一の星を見上げながら、きみは何と闘っていたのかとタイラーに尋ねた

父親だとタイラーは答えた

チャック・パラニューク 著/池田真紀子 訳(2015)「ファイト・クラブ」早川書房

これはやはりパラニュークの生い立ちが関係しているのだと思います。彼は14歳の時に両親が離婚し、母親に育てられることとなりました。問題は父方にあります。まず父親の父(祖父)に当たる男がある日、妻(祖母)が断りなくミシンを買ったことに激怒し、ショットガンで撃ち殺します。

当時3歳だったパラニュークの父親は、ベッドの下に隠れて難を逃れましたが、祖父は直後に銃口を咥え、自分の頭を吹き飛ばしたのだそうです。父はそこで起こった事の一部始終を見ていた。これは「呪い」として彼の人生に暗い影を落とし続けたことでしょう。

父は大人になり結婚した後、4人の子供をもうけますがセックス中毒になり離婚、その数年後、当時付き合っていた恋人と家に帰ってきたところを、彼女の前夫に彼女もろとも撃ち殺されたそうです。壮絶です……。

そして父の受けた「呪い」は確実に彼の子であるパラニュークにも受け継がれたことでしょう。結果「父の不在」と「暴力=男性性の恐ろしさ」を経験した彼の過去が「ファイト・クラブ」発想の源となります。これは後書きにも書かれています。

同じころ、ビル・モイヤーズの番組を眺めていたら、ストリートギャングとは、父親のいない家庭で育った若者たちが互いに助け合いながら大人の男になろうとしている集団だと言っていた。メンバーに命令や課題を与える。規則や規律を課す。結果を出せば報いる。軍隊の新兵訓練係の軍曹と同じだ。

さらに同じころ、書店では『ジョイ・ラック・クラブ』『ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密』『キルトに綴る愛』といった本が売れていた。どれも力を合わせる女性たちを描いて一つの社会的モデルを提示した小説だ。集まって打ち明け話をする。人生経験を分かち合う。しかし、男同士が人生経験を共有する新しい社会的モデルを提示している小説は一つも見当たらなかった

チャック・パラニューク 著/池田真紀子 訳(2015)「ファイト・クラブ」早川書房

『いい加減、独り占めはやめようぜ』

凄いと思います。ここから彼が導き出したのは①男が遙か原始時代から続けてきた「力」をベースに規律と階級を構築していくシステムと、②女性が育んできた「人生をシェアする=共有」のシステムの融合です

今日では社会的、経済的な要因から、シェア・オフィスやシェア・ハウスなど「シェア」が一般化されましたが、それは多分に女性的なものであり、事実パラニュークが上記で述べているようにこれまで男同士が人生経験を「シェア=共有」する社会的モデルを示した小説は一つもなかった。

「シェア」とはその1でも述べたように今や資本主義に乗っ取られてしまった「男性性」を資本主義から解放できる新たな概念ではないのだろうか。パラニュークはそれに気づいた。資本主義が僕たち「男」に強いてきたことを簡単にまとめてみましょう。

  1. 男性性を成す根幹の一つである暴力を去勢する。
  2. 去勢した暴力の矛先を社会での自己実現や幸福の追求という名の下に「競争」へと転換させる。男は絶えず「競争」し、利益を勝ち取ることで賞賛される。
  3. 資本主義は「領土の拡大」とそこで生じる利益の「独占」を目指すので、男は育った家族の元を離れ、競争の果てに己を成し、妻をめとり、新たな家族を創らなければならない。これができない男は「不能」とされる。

資本主義の見えないレールの上で男はせっせと競争し、そこで生まれた利益を己だけのものにしようとする。しかしパラニュークは女性にならってそれを「一緒に愉しもうぜ?」と囁きかけてくる。

こう考えると実は「シェア」って凄い概念です。これをされると資本主義は「領土の拡大」と利益の「独占」ができなくなる。「ファイト・クラブ」でパラニュークが「シェア」を進め、その結果、解体しようとしたもの、それは資本主義に支配された男性性であり、その根幹を成す「暴力」でした

その3でも述べたように、これまでの暴力は外に向かうことでDV、セクハラ、パワハラ等、様々な問題を引き起こしてきましたが、その力を己自身に向けろとパラニュークは宣言します。徹底的に他の男と殴り合い、互いに相手の拳=暴力を受け入れ、己はただの肉体という不完全な物質にしか過ぎないことを知る。それで新たな世界は開かれるのだと。

『父なき世界の神話』

神話とは過去に論じた「Mad Max 怒りのデスロード」や「トイ・ストーリー4」でも述べましたが、ある共同体(国という大きなものから、数人の小さなグループまで)」において、そのグループの「成り立ち」を語ることによって、その共同体の基盤(共通認識や文化の源流)となって、そのグループを支える「物語」のことです。

先のストリートギャングの引用部分でビル・モイヤーズ(有名な「神話の力」の著者)の名前が出ていることからもパラニュークが「神話」を理解し、希求していたことが分かります。何より彼は「父」を持たず、ゲイという男でありながら「男から切り離された存在」として、自分が生きる縁(よすが)のようなもの、すなわち神話を必要としていたのではないでしょうか。

キャンベルとの共著であり名著。人はなぜ「物語」を求めるのか、これを読めば分かります。

実はこの「父のいない男」というのはパラニュークのみならず、全世界的な出来事だと思います。確かにほとんどの男性は生物学上の父を持ってはいますが、昔のように「力=暴力」をきちんと教える父はいなくなりました。(当然ながら子供にDVを加える父親は含みません)

神話における父とはその世界における絶対的な存在、すなわち神であり、息子の前に強大に立ち塞がる壁でもあります。それを乗り越えないことには彼は一人前の男にはなれない。

『新たなる父の創造へ』

何より父の「力=暴力」は強大であり、それに打ち勝つにはそれ以上の「力=暴力」を身につけなければならない。しかしそれは同時に「力=暴力」のコントロールの方法を身につけることでもあった。

「力=暴力」は悪しきものとされていますが、自分や愛する者を守るために時として必要なものでもあります。良き父とは壁となることで息子にそれを教える存在でもあったのです。しかし今やそのような父親像は負の側面ばかりが強調され、必要とされなくなった。

つまりタイラー・ダーデンとは父なき時代、資本主義社会における全く新たな父親象であり、新たな神話の創造主、さらにその神話を元に生きていこうとする新たな英雄を育むゆりかごでもあるのです。

そして僕が最大限に感動するのはパラニュークがタイラー・ダーデンという「父」を創造することで、祖父の代から続く、己に降りかかった「呪い」を見事に打ち破ってみせたことです。以下のラスト部分の引用は神と人間の対話というより、父と息子の対話として読んでみてください。彼がこの小説を書いた本当の理由が染みてきて泣けます……。

ぼくは背後の壁面に免状をずらりと従えた神とウォルナット材の大きなデスクをはさんで会う。神は尋ねる。「なぜ?」なぜあれだけの悲劇を引き起こしたのか。

人はすべて、二つとない特別さを特別に凝縮して作られた、神聖で二つと同じ形のない雪片だと気づかなかったのか。

人はすべて、愛が愛を持った存在だとわからないのか。

ぼくは用箋にメモを取るデスクの向こうの神を見つめる。神は根底から誤解している。

ぼくらは特別の存在じゃない。

かといってくずでもごみでもない。

ぼくらはぼくらだ。

人は人にすぎず、出来事は出来事にすぎない。

チャック・パラニューク 著/池田真紀子 訳(2015)「ファイト・クラブ」早川書房