「ファイト・クラブ」が炙り出す、男に生まれるとは如何なることか? ─ その3

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『パラニュークがこの作品で提示したもの=小説と映画の最大の違い』

デヴィッド・フィンチャー監督の映画版も小説に負けず劣らず素晴らしい出来映えでした。しかし大きな違いがあるのがラストシーンです。

小説版では主人公の「アイコン=憧れ」的存在だったタイラー・ダーデンを殺すことで、主人公自身が次なるタイラーになるという結末だったのに対し、映画版ではタイラー・ダーデンは資本主義を象徴するクレジット会社や銀行など金融系企業の入った高層ビルディングを破壊します。(ちなみに小説版でのターゲットは国立博物館)まさに資本主義に対する「闘争=テロ=暴力による目的解決」です。

しかし作者であるチャック・パラニュークがこの小説で描こうとしたものはそのような形での「闘争=テロ=暴力による目的解決」だったのでしょうか? 僕は違うと思います。パラニュークがこの小説で描こうとしたもの。それはまさにタイラーが主人公と初めて酒を酌み交わした夜に発したこの言葉、「おれを力いっぱい殴ってくれ」であったと思います。

『殴られる=世界を受容するということ』

この小説で描かれているのは分かりやすく言うと「暴力=男性性」の解体と復権だと思います。復権? 今でも世界にはDVやセクハラ、パワハラが溢れかえっている。男性性は復権でなく、むしろ「抑制=去勢」されなければならない。皆がそう考えていると思います。しかし、パラニュークが今の時代に必要だと考えた男性性とは、それらとは全く異なるものであったと思います。

もしかしたらそれは彼がゲイであることと関係しているのかもしれない。僕自身は(現在のところ)ヘテロセクシャル(異性愛者)ですが、それでもゲイであるということは何かを想像した時に、彼らが持ち得る、そして僕らが持ち得ない最大の視点、それは「受容性」だと思います。

セックスにおいて受け身になることを知らない僕らは、受け身として相手から身体を求められた時の、あるいはとにかくヤリたいからヤラせろと迫られた時の「己の肉体とは所詮、物質である」という感覚を持てません。

(僕は若い時、何回か痴漢にあったり、男性に迫られたりして何となくですがその感覚を理解できました)彼らがヘテロセクシャルの男より遙かに自分の身体を慈しみ、大切にする理由のひとつがそれだと思います。

自分の身体を「物」として客体化できているからこそ、愛おしくなるのです。それができない多くの普通=ヘテロセクシャルの男は身体を侮蔑しているとさえ言える。そして己の肉体への侮蔑は相手の肉体、さらには精神への侮蔑にもつながります

この小説でパラニュークが重要視しているのは「暴力=男性性」を解放し、殴り合うことですが、それ以上に「殴られ、ズタボロに痛めつけられること」に主眼が置かれています。徹底的に相手の拳を受け入れることで資本主義社会という競争社会の「敗者」となり、己はただの肉体という不完全な物質にしか過ぎないことを受け入れることで逆に世界は開かれると宣言しているのです。

これは「暴力=男性性」の向かう矛先を他者でなく、己自身に向けろということ。これこそその1で述べたタイラー・ダーデンという英雄がそれまでのアメリカが創造したアンチ・ヒーローと決定的に異なり、抜きん出ている点だと思います。

ファイト・クラブでの夜が明けると、現実世界のあらゆるもののボリュームが下がる。何が起きても腹は立たない。自分の言葉が法になる。しかし、たとえ周囲の誰かがその法を犯し、あるいは意義を唱えたとしても、やはり腹は立たない。

チャック・パラニューク 著/池田真紀子 訳(2015)「ファイト・クラブ」早川書房

これはもう宗教的な解脱(げだつ)=悟りの境地です。そしてこれこそが唯一、資本主義に対抗しえる手段。勝とうと思っている限り、資本主義には勝てない。勝ち負けという価値観自体が資本主義的であり、逃げることでしか、つまり「闘争」ではなく「逃走」でしか本質的な勝利は獲得できない。パラニュークはそれを看破したのです

『ロマンス小説としてのファイト・クラブ』

今回、再版された小説版「ファイト・クラブ」で白眉だと思うのは前にも述べた著者自身の言葉で綴られた後書きが収録されていることです。それを読んでいて、なるほどなぁと思った箇所がありました。先にも引用した部分ですが、

実のところ、ぼくが書いていたのは『華麗なるギャツビー』を少しだけ現代風にしたものに過ぎない。生き残った使徒が彼のヒーローの生き様を伝える“使徒伝承”のフィクションだ。二人の男と一人の女がいた。そして男の一人であるヒーローは、銃で撃たれて死ぬ。

語り尽くされた典型的なロマンス小説。そこに、エスプレッソマシンやESPNチャンネルと競えるような現代風のアレンジを加えただけだ。

チャック・パラニューク 著/池田真紀子 訳(2015)「ファイト・クラブ」早川書房

これって要は『華麗なるギャツビー』というアメリカの古典的名作をパラニュークがどう読んだのかという説明なんですよね。なるほどロマンス小説か、まずはそう思いました。『華麗なるギャツビー』において主人公ニック・キャラウェイとギャツビーは奇妙な友人ではありますが、同性愛的関係ではありませんし、当然ながら肉体関係もありません。

しかしパラニュークはこの二人に成立している関係を「ロマンス」と呼んだ。お互いを認め合い、何よりお互いの中に自分と同じ「欠落」に加え、自分にはないものを認めるからからこそ惹かれ合う二人。確かにこれは広義な意味でのロマンスです。そう考えるとアメリカはこのような男性のロマンスをこれまでにも多数描いてきている。

パッと頭に浮かんだのは映画監督マイケル・マンです。名作「ヒート」や「コラテラル」、これらはパラニューク視点で見ればまさに男同士のロマンス映画です。お互いがお互いの中にある「欠落=渇き」を共有し、さらにお互いの中に自分が決して持ち得ない美質を見る。だからこそお前が欲しい。その想いをペニスの代わりに銃弾にして、互いの身体に突き立て合う、そんな映画でした。

Heat (1995) Warner Bros.
病んだ男(アル・パチーノ)がようやく己が認められる真の男(デ・ニーロ)を見つけ、彼に首ったけになっていく、そんな映画にも見えます。
Collateral (2004) DreamWorks Pictures/Paramount Pictures/International Pictures
ラスト、電車の連結部でお互いを己の理想像に見立て、撃ち合うシーンはSEXのメタファーにしか見えません

「ファイト・クラブ」では互いに拳を交えることで、お互いの渇きを共有する。その結果が傷跡として身体に刻み込まれる。それは敗者の証じゃなく、この資本主義社会から一時でも逃れることのできた証。「暴力」によって「秘密の花園」を共有した、男同士のロマンスによるキスマークなのです。

その4へ続く

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