「ファイト・クラブ」が炙り出す、男に生まれるとは如何なることか? ─ その2

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『斬新な内容に、斬新な文体』

この小説は内容がとびっきりなだけでなく、手法もまた、それに見合った見事なものでした。僕はこれを数時間で読み終えました。もちろん面白かったのが最大の理由ですが、それしても、この読みやすさは何だとビックリしました。その「可読性の高さ」の最大の原因は「圧倒的なテンポの速さ」だと思います。これに関しては後書きの中で著者自身が述べています。

登場人物が一つのシーンから次へと直線的に進んでいくのではなく、カット、カット、カット、カメラが切り替わるように物語を進行させる方法があるはずだと思った。ジャンプの連続。一つの場面から次へ。読者を迷子にさせることなく、物語のあらゆる側面を提示する方法が何かあるはずだ。ただし、ある側面の核心、エッセンスとなる瞬間だけをちら見せしたら、潔く次に移る。そしてまた次へ。その繰り返し。

チャック・パラニューク 著/池田真紀子 訳(2015)「ファイト・クラブ」早川書房

20年以上前の発表当時、このスタイルは圧倒的に斬新だったと思います。小説と言うより多分に映像的。それまでの小説では主人公を含めた登場人物の背景(バックストーリー)を描写によって積み上げ、物語に厚みを持たせていくのが通例でしたが「ファイト・クラブ」ではそんなものはすっ飛ばされています。人物背景なんてどうでもいい、とにかく圧倒的ハイテンポで「言葉」を読者にたたき込んでいく。

『圧倒的なスピード感』

核心を提示するとサッと次へ移る。ストーリーを前進させるための「謎」は各章で提示されますが、引っ張りすぎず、次の章以降であっさり種明かしがなされている。そしてまた新たな「謎」の提示。さらに次へ、次へ、その先へ。まさに上記で引用した『カット、カット、カット、カメラが切り替わるように物語を進行させる方法』に他なりません。つまり小説における新たな方法論を提示したのです。

これだけ「スピード感」のある、読みやすい小説は滅多にないでしょう。

これは「物語」を語る小説ではなく、「思想」を語る小説だと思います。「思想」という言葉が大げさ過ぎるのなら「メッセージ」でもいいです。「ストーリー」をメロディーにのせることで、聴く者にイメージを想起させていくポップソングに対して、「メッセージ」をリズムにのせ、語りかけていくラップの様なものだと言うこともできる。だからこそ誤解を恐れずに言うと小説としては「薄っぺら」になっています。

これまでに当サイトで評論した「納屋を焼く」や「めくらやなぎと、眠る女」などは話が非常に複層的で一読しただけでは解決されない謎が残る、言い換えると「厚み」のある小説でした。作者である村上春樹さん自身が物語の「複層性」を大事にしている方なので当然でしょう。実際、映画やアニメーション、漫画などに対抗して、小説という媒体が生き残っていくにはこの「複層性」が非常に重要だと思います。

『ライムされる言葉』

しかし「思想=メッセージ」を分かりやすく語っていくにはその複層性が邪魔になる。シンプルに言葉を届けたい。だからこそ『カット、カット、カット、カメラが切り替わるように物語を進行させる方法』を開発したのでしょう

その方法をさらに紐解いていくと各章がどれも8から14ページ内に収まるようになっている。これが繰り返されることで、まるで音楽のように一定の「リズム」が形成され、そこに伝道師タイラー・ダーデンの強烈なメッセージがある時は韻(ライム)を踏んでテンポ良く挿入されていく。まさにラップです

死のプロセス発動まで
残り十秒、九秒、八秒。
獣医、ときみは言った。
獣医になりたい、獣医に。
動物の医者か。
それには学校に行かなくちゃ。
うんざりするほど学校にいかなくちゃ、ときみは言った。
学校へ行ってがむしゃらに勉強するか、あるいは死ぬか。
レイモンド・ハッセルくん、
自分で選ぶんだ。
ぼくは財布をきみのジーンズのポケットに押し込んだ。
そうか、本当は動物の医者になりたかったわけだな。
涙に濡れた銃の鼻面を片側の頬から離し、反対の頬に押し当てた。
昔からの夢はそれなんだな、獣医。
そうなんだな、
ドクター・レイモンド・
K・K・K・K・ハッセル?
そうだ。
ふざけてないな?

〜中略〜

ぼくはきみの運転免許証を持ってる。
きみの名前を知っている。
きみの住所を知っている。
ぼくはきみの運転免許証を処分したりしない。
きみの様子を確認させてもらうぞ、
ミスター・レイモンド・
K・ハッセル。
三ヶ月後、半年後、一年後。
もし学校に戻り獣医への道を歩んでいなかったら、きみは死ぬことになる。
きみは無言だった。
さあ、行けよ、
きみの短い人生を生きろ。

〜中略〜

これがタイラーがぼくに望んだこと。
ぼくの口から聞こえてくるのはタイラーの言葉だ。
ぼくはタイラーの口です。
ぼくはタイラーの両手です。

チャック・パラニューク 著/池田真紀子 訳(2015)「ファイト・クラブ」早川書房

上記中の一箇所を英文で書きだしてみると、より分かりやすい。執拗に韻を踏んでグルーヴ感を出しています。

I have your license.
I know who you are. 
I know where you live. 
I’m keeping your license, and 
I’m going to check on you, mister Raymond K. Hessel. 
In three months, and
then six months, and
then a year, and
if you aren’t back in school on your way to being a veterinarian,
you will be dead…

Chuck Palahniuk. (1996). Fight club

加えて主人公の「ぼく」が読者に向かって語りかけるという文体も、本作の「思想=メッセージ」を伝えるというテーマに相応しいものだと思います。

ここで上手いのは英雄タイラー・ダーデンではなく、それに付き添う、何でもない凡人である「ぼく」の視点で描かれていることです。なぜなら読者もまた英雄でない普通の人間であり、それ故に主人公である「ぼく」に共感することができるからです。

これに関しても作者パラニューク自身が後書きで、この作品は「華麗なるギャッツビー」を基にした『生き残った使徒が彼のヒーローの生き様を伝える“使徒伝承”のフィクション』であると語っています。つまりこの小説は「何を書くのか?(テーマ)」と「どう書くのか?(方法論)」が極めて意識的に突き詰められ、それらの融合に成功した、まさに結晶のような作品だということです

Fight Club (1999) Fox 2000 Pictures/Regency Enterprises/Linson Films
映画もまた傑作です。音楽的なこの小説の映画化に当たって、ミュージックビデオ出身のデヴィッド・フィンチャーに撮らせたのは大正解だったと思います。

『自分を確立せよ、全てはそれからだ』

僕はその1で、この小説は『お前は今のままでいいのか? 人間って何だ? 人生って何だ?』と痛切な問いを突きつけてくる作品であると書きました。ここで重要なのは『自分とは何だ?』という普遍的な問いかけです。

僕はラップやHip Hopに関しては詳しくない門外漢ですが、それでもラジオから流れるそれらを聴いていて思うのは、『自分とはこういった者である』という確立と宣誓なしには成り立たない表現手法ではないだろうか? ということです。

まず『自分とはこういった者である』という宣言をベースに、こういう俺だからこそ、こう考える、と提示していく。そこで「俺」の部分がヤワな者は生き残れない。「ファイト・クラブ」が常に突きつけてくる『お前って何なんだよ?』の問いかけと新たな価値観の提示はそういう意味でも多分にHip Hop的だと思います。

一口に「感動」と言っても、そこには様々な種類があります。心の隙間に入り込んで、じわじわと成長し、根を張っていく。そんな「複層性=厚み」のある小説と違い、「ファイト・クラブ」とはキレッキレの一太刀、その鮮やかな傷跡がいつまでも残る、そんな「感動」をもたらす小説であり、それはこの小説特有の薄く=鋭く、リズミカル=音楽的で、言葉=意思のエッジを立たせた独特な文体が創り上げたものなのだと思います

その3へ続く

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