『本作に流れる、2つのストーリー』
今作には表のストーリーに加え、もう一つの裏テーマがあり、それが作品に圧倒的な深みをもたらしていると個人的には思っています。それではまず表のテーマとは何か? それはこれまで述べてきた現代中国に対するフー・ボーの怒りで間違いないでしょう。
しかしその3で論じたように彼の怒りは中国共産党と言うより、彼らの政策を甘んじて受け入れ、怠惰な日常を繰り返す民衆にこそ強く向けられています。「俺達はいつからこんな人間に成り下がってしまったんだ?」その問いかけは、この映画を鑑賞する中国国民こそ標的にしている。
『フー・ボーはどこに隠れているのか?』
そして重要なのが裏のストーリーです。僕は前に書いた映画『シェイプ・オブ・ウォーター』の評論で、作者とは必ず、思い入れがある自己の分身のようなキャラクターを作品内に紛れ込ませると書きました。『シェイプ・オブ・ウォーター』で、監督ギレルモ・デル・トロが己の分身として創造したのが科学者ホフステトラーでした。
それでは今作内でのフー・ボーの分身とは誰か? 主人公ブーを挙げる人がいるかもしれませんが、それは違う。僕はヤクザ者のチャンであると確信しています。
それではなぜ、チャン=フー・ボーなのか? それは『象は静かに座っている』という作品が「フー・ボー自身が中国という国で今作を撮って、発表するということにどれだけ苦しんだか」の完全なるメタファーだからであり、その視点で今作を捉えた場合、常に中心にいるのがチャンだからです。
『ブーを満州里へ逃がす=己の望む形で作品を発表するということ』
「映画を撮って発表する」という事を裏テーマとした作品は過去にも存在します。有名なのが巨匠ロバート・アルドリッチの『北国の帝王』です。これは1930年代の大不況時代のアメリカを舞台に、職を求め、鉄道の無賃乗車で放浪を続ける浮浪者と、無賃乗車犯を電車から叩き出す車掌との対決を描いた作品でした。
そこではリー・マーヴィン演じる無賃乗車(タダ)で旅をする男は、スポンサーから金を集めて=タダで映画を作り続ける映画監督を象徴し、片やアーネスト・ボーグナイン演じる、それを取り締まる車掌は金を回収し、作品を思いのままにコントロールしようとするプロデューサーを表していました。
それでは今作を「映画を撮って発表するという事をテーマ」として見た場合どうでしょう? フー・ボーの化身、チャンは罪深き人間です。彼は友人の妻と肉体関係を持つことで、大切な友を自殺へと追いやってしまう。これは過去に権力に負け、ふがいない作品を世に出してしまったということに対するフー・ボーの後悔のメタファーです。
つまり飛び降りて死体と化した友の姿とは、過去に想いを成就させてやれなかった作品の変わり果てた残骸なのです。これに詳しいのがその1でも引用させて頂いた、林 峻さんによる「Indie Tokyo」で発表した『監督の死の真相と、流出したチャットメッセージ ― 『象は静かに座っている』について』です。以下がその部分となります。
胡波(フー・ボー)が受け付けないのは、実利実益を優先した雑念のある創作活動である。『象』で于城(チャン)役を務める俳優の章宇がなぜ商業映画を撮らないのか尋ねると、彼は地面を見つめながら答えた「金のために映画を撮ったことが一度だけ(卒業制作である夜奔)あるんだ。そのせいでその面影が俺のレンズから透けて見えるんだ。」
林 峻/監督の死の真相と、流出したチャットメッセージ ― 『象は静かに座っている』について(2)
今作とは【一度目に犯した過ち=友人の自殺=金の為に撮った映画】を繰り返しそうになったフー・ボー、すなわちプロデューサーから上映(映画館の回転効率)の為に、4時間近い作品を2時間に切り詰めろと言われた彼が、それに屈しそうになりながらも何とか【ブーを満州里へ逃がした=己の信念を守り抜いた】という物語なのです。
以下に挙げた画像は極めて確信的に撮られたショットだと思うのですが、①のこれから自殺する友とそれを見つめるチャン、②のゴロツキに捕らえられたブーとそれを見つめるチャン、どちらも構図的に同じですし、死んだ友とブーは同様に額に手を当て、同じポーズを取っています。
そして亡き友がかつて口にした『満州里の座り続ける象』の話をブーがした時、チャンの中で2人が同一の存在となります。1回目は死なせてしまった。だからこそ2回目では何とか救いたい。彼はブーを満州里へ行かせる事を決意します。
それはすなわちたとえ己の命と引き換えにしてでも、今作を望む形で世に送り出すということです。
『光の中へ踏み出した3人と、暗闇に留まったチャン=フー・ボー』
今作ではずっと陽光の差さない曇った空の下、シーンが展開していきます。それが意味するのは抑圧され希望のない主人公らの心象風景であるのに加え、極めて重要な光が差し込む幾つかのシーン、それを強調するための、あえての演出であると述べました。
やがてブー、リン、ジン、それぞれにとって最悪の事態が起こった後、微かな祝福の光が彼らの頭上に溢れ、その中を3人は歩み出していきます。
ブーは友に裏切られた後に、リンは身体の関係を持った副主任とその妻をバットで叩きのめした後に、ジンは老人ホームの下見で己の惨めな末路を垣間見た後に……。
僕はてっきり、チャンも弟や家族、愛する女性との関係を断ち切って、彼ら3人と一緒に満州里へ向かうものだと思っていました。だからこそ、暗いトンネルを例の女性と歩いて、その先に溢れる光が見えたシーンの時は、他の3人と同様にその中へ歩み出し、満州里へ向かう決意をするのだと……。
けれども違う。光の中へ進んでいったのは己を見捨てた女性であり、チャンは暗闇に留まりました。この時、僕は彼が満州里には行けないのだと悟りました。それは事実その通りでした。
彼が後にブーの友人であるカイに拳銃で「足」を撃たれるのは象徴的です。足を怪我する=移動することが出来なくなってしまう。もし撃たれていなければ、あるいは撃たれても足以外の箇所だったら、チャンもまた3人と一緒に満州里を目指したでしょう。
しかしそれは叶わない。チャンはブーを逃がした代わりに、カイの拳銃自殺を目の当たりにします。彼は再び罪を犯してしまったのです。そこにチャン=フー・ボーのもう逃げ道がないんだという、圧倒的な絶望を感じました。
『フー・ボーは、既に死を決意していた?』
チャンは己の意思でもって、ブーら3人を「微かな希望=満州里」へ送り込み、己自身は暗闇に留まり続けました。これはやはりその後のフー・ボーの自殺を想起せざるを得ません。なのに彼は作品内ではブーたちを満州里に無事到着させ、座り続ける象と対面させることをしませんでした。
確かにそれは作品に圧倒的なカタルシスをもたらします。しかし、そんなロマンチストの戯れ言のような、取って付けた希望を無理矢理ツギハギするようなエンディングにはもう出来なかった……。ここに彼の絶望の深さと何より作家としての誠実さ、そして逆説的にそれでも山の向こうの象の咆哮を聞く、ブーら3人の姿に微かな希望を感じることが出来ます。
これらはあくまで僕の妄想であり、真実はもちろん分かりません。ただそんなことは脇に置いても、今回これを書くに当たって、改めて今作を見直した結果、この人は本当に凄い作品を撮ったんだなと再度実感できました。
4時間と聞いて腰が引ける方も多いかと思いますが、それでもまだ未鑑賞なら是非、観て欲しい。これは文字通り「命」がかけられた作品です。そんな尊いものが現在どれだけありますか?