抑圧が生み出した悲しき傑作、「象は静かに座っている」 ─ その3

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『なぜ彼らは満州里を目指すのか?』

ブーとリン、ジンに彼の孫娘の4人は揃って中国の北の果て、満州里を目指します。しかしなぜ、満州里なのでしょう? もちろんそこに一日中座っている象がいるからなのですが、我々日本人には理解できない、それ以上の意味があると思っています。

© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen

日本人にとって「ここでないどこか=外への世界の扉」と聞いて無意識にイメージするのは海、しかも北の日本海ではなく、遠くアメリカへと連なる広大な太平洋の水平線だと思います。これは日本の歴史、すなわち黒船の来航に始まり、太平洋戦争、さらに戦後培われたアメリカという国への憧憬など、様々な複合的要因から無意識的に我々のDNAに刷り込まれてきたものです。

一方、沿岸沿いの一部の人々は別として、多くの中国人は違います。なぜなら四方を海に囲まれた純然たる「海洋国家」の日本と違い、中国は「大陸国家」だからです。「大陸国家」とは、国境と接する周辺の国々を征服し、自国の領土を拡大することによって国力を高めます。

三国志は元より、中国はその歴史の繰り返しです。現在、彼らは東シナ海の領有権拡大を目指していますが、それはつい最近、数十年前からのことで、それまでは海の向こうになど目もくれませんでした。

満州里のロシアとの国境/Photo by heijin (PIXTA)

そんな中国人らにとって「ここではないどこか=外への世界の扉」と聞いてイメージするのは、むしろシルクロードを起源に始まる、ロシアやモンゴルから始まり、遠くヨーロッパへと連なる陸路です。満州里とはロシアとの国境に面する街で、一帯一路政策の起点となる中国最大の陸運交易都市であり、中国とは思えない異国情緒漂う街並みが広がっています。

今の中国の貧困に喘ぐ主人公らにとって「ここではない、どこかへ行きたい」という、微かな未来への希望の象徴がこの街なのでしょう。

満州里のマトリョーシカ広場/Photo by heijin (PIXTA)

『座り続ける象とは何か?』

象と聞くと僕ら日本人は立派な牙を持つアフリカ象、あるいはそれより少し小柄なインド象をイメージします。もちろん現実世界において象とはそれ以外にはあり得ません。しかし中国人にとって満州里の象と聞いて、おそらく一番にイメージするのはマンモスです。

満州里ではかつてマンモスの化石が発掘されたため、市は観光客誘致の為にマンモスを強く推しており、マンモス公園なるものがある他、満州里西郊空港前には巨大な2体のマンモス象が鎮座しています。

つまり今作での「象」とはマンモスをイメージしているのだと考えます。それでは中国の北の果て、異国への扉の街で座り続けるマンモス(極北に住む象)とは何を意味するのか?

中国には「北虜(ほくりょ)」という言葉があります。これは明の時代、北方から領土を脅かしたモンゴル遊牧民(チンギス・ハンを始祖とする)らの侵攻を意味します。彼らは略奪を繰り返し、首都北京をも包囲しました。つまり中国人にとって「北」とは「外の世界への扉」であると同時に、遠い過去の遺伝子に刷り込まれた、国を揺さぶる未知なる脅威のイメージでもあるということ

ここからは僕の推測ですが、満州里の座り続ける象(極北に棲んでいたマンモス)とは、かつて中国全体を揺さぶった、『外からの脅威の象徴だと思っています。しかしそれは今や遙か遠く歴史の闇に消え、ほとんど忘れ去られようとしている。なぜなら現在の中国は世界第2位のGDPを有し、アメリカに代わって、世界の覇権国家たる地位に手が届くまで昇り詰めてきたからです。

『雪の向こうからやってくる、何者かの存在』

しかし忘れてはいけない、中国共産党を打ち倒す力はいずれ必ずやってくる。それがラストシーン、山の向こうから聞こえる、象たち(マンモス)の咆哮だと思うのです。ただし、ここで重要なのは、中国を変えるのは「中国国民ら自身の反乱=内圧」ではなく、山の向こうに存在する「外圧」であるということ。そのイメージがオープニングシーン、何者かの足跡を追って北方の雪原を歩いてくる、見知らぬ存在となって象徴されているのでしょう。

「外圧」とは必ずしも中国国民にとって益をもたらす存在ではありません。それは日本の歴史に例えればペリーの黒船来航です。彼らアメリカ人は武力でもって、日本を開国させました。従わなければ武力衝突となっていたでしょう。しかし中国を変えるのは力による「外圧」しかない、フー・ボーはそう直感していたと思います。

なぜなら中国には「北虜(ほくりょ)」に加え、アヘン戦争に端を発するイギリスの侵略、さらには日本による満州国の建国など、国を変える力は常に「外圧」でもたらされた民族の歴史があるからです。

© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen

僕が今作で最も強く感じたフー・ボーの『絶望とは中国共産党に対してではなく、彼らの圧政を甘んじて享受し、日々を怠惰に暮らし、どこまでも堕ちていく、中国国民に対して向けられていることでした。

僕ら日本人は戦後教育によって、民主主義は万全であり、やがて世界は民主主義の元に統一されると信じ込まされていますが、実体は異なります。少なくとも中国やロシアでは歴史上、苛烈な弾圧が繰り返されてきたにもかかわらず、民衆は強力な権力者が自分たちを統治することを望んでいます

なぜなら歴史上、この2カ国が平穏を有していたのは、いずれも強力な独裁者が君臨した時代だったからです。つまり彼らは「民主主義」より「皇帝」を望むのです。例えば現在ロシアの一部ではスターリンの人気が高まりつつあります。この感覚は日本人には理解できないでしょう。

フー・ボーの絶望があまりに大きいのは、敵が己の中のいるからであり、腐っているのは己自身の血であるからです。多くの評論がラストの象の咆哮は、中国国民らの自由を求める叫び声であると述べるのでしょうが、そんなものはロマンチックな戯れ言だと僕は強く思います。フー・ボーが実感する中国人とは、国(体制)が変わるのを望んでいません。ただその中で上手くやれれば良いのです

それに対しての彼の壮絶な怒りがブーの口を借りて叫ばれます。今作の中で唯一、頭上に太陽が広がる、2時間50分以降のシーンです。

「お前らなんかクズだ! 最低の人間だ! 死んじまえ! 地獄に落ちろ!」

© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen

『外からやってくる何者かの力』、その存在が結果として、中国全体を吹き飛ばすことになっても、それに希望を見いだすしかない。こんなにも深い諦観を現在の日本に住む僕らが実感することなど、到底できっこないでしょう。

その4へ続く

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