抑圧が生み出した悲しき傑作、「象は静かに座っている」 ─ その2

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『映像で語る、ということ』

その1でも書いたように今作では言葉は通常の意味を持ちません。映像こそが重要で、そこにこそ作者の意図が大きく込められている。それは中国共産党の検閲に対する対策でもあり、結果としてそれらが表現の圧倒的な強度となって、作品に深みをもたらしています。それでは具体的に今作における映像表現の素晴らしさ、中でも作品全体を貫く重要な4つの表現手法から、順に掘り下げていきたいと思います。

1. 光の差さない世界

今作で空はいつもどんよりと曇っています。それは次々と映し出される荒廃した中国地方都市の風景と合わせて、観る者の心の中に常に不安や救いのなさを植え付け続けます。しかしそれにまして最も重要なことは、この直射日光が射すことのない世界が結果として「独自の映像空間を創り出す」ということ。ここにフー・ボーの緻密な全体設計があります。

© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen
© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen

直射日光による強い光と影が差さないことによって、淡い光が全方位的に空間全体とキャラクターたちを包みこみ、加えて、屋内空間においてはブルーで統一した色彩設計によって、観る者を「異世界」へと連れて行く。これと類似するのが2015年のアカデミーで監督賞を受賞した『レヴェナント: 蘇えりし者』です。

(c)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.

ご覧いただければ分かりますが、北国の原野が舞台であり、青空や陽光がキャラクターらの頭上に広がることはほとんどありません。それは極北の厳しさや閉塞感、主人公の切迫感をより一層引き立てる。監督だったアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは多くの撮影を太陽が地平線の向こうに消えて、周囲が暗闇に包まれるまでの「マジックアワー」と呼ばれる数十分間で行ったそうです。つまりイニャリトゥにとって、光と影が混じり合った淡いの世界こそ、作品世界の骨格を成すものだったということです。

映画とは窓であり、映像作家はその向こうに「世界」を構築しなければならない。一見、ドキュメンタリータッチでありながら、今作がしっかりと「映画そのもの」になっている要因の一つはこの「異世界感」があるからです。

加えてこれは後に詳細で述べますが、そんな曇った空間に一服の清涼剤のように光が満ちる時間が幾つか現れる。それは作品内において極めて重要なシーンであり、その「光」を見せたいが為に、フー・ボーはあえて曇った世界を展開させているのです

2. 極度に被写界深度の浅い、特殊な撮影方法

今作で独特なのは終始曇った薄暗い世界と合わせて、被写界深度の浅い=ピントが合わせられたもの以外が極度にボケる撮影方法が挙げられます。映画好きの方ならピンとくるのがカンヌやベルリン国際映画祭でグランプリを獲得した『サウルの息子』でしょう。

(C)2015 Laokoon Filmgroup

そこでは上記の被写界深度を浅く設定した独特な撮影方法が披露され、それは今や映画世界の中でひとつのテクニックとして広く流布するようになりました。『サウルの息子』が2015年作、今作『象は静かに座っている』は2018年作です。間違いなくフー・ボーは『サウルの息子』を観ていたことでしょう。

通常ここまで同様のテクニックをあからさまに表現の根幹に据えるというのは、ともすれば映画関係者の失笑を買いかねない。しかし、『サウルの息子』ではそのテクニックは主人公サウルと観る者を同一化させようという企みが主だったのに対し、僕は今作でフー・ボーがそのテクニックを使ったのには全く別の狙いがあったと思っています。

それは言葉に頼らない、「映像で語る」ということに大きく繋がります。ボカされ見えないからこそ、人はそれが何なのか注視します。つまり見えないからこそ見ようとする。チャンの愛人で自殺した友人の妻やシングルマザーのリンの母親、いずれも重要なキャラクターですが物語の中盤までその姿にピントが合わせられることはありません。だからこそ見えない表情や姿を見たいと人は「欲望」してしまう。その心理をフー・ボーは巧みに利用します。

© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen

特に恐ろしいと思ったのが以下のシュアイに苛め続けられている生徒が「世界は一面の荒野だ。本の一節だ、感動した」そう言って微笑むシーンです。ボケた画面の奥、半ば狂いかけている彼の笑いの表情にはゾッとしました。ホラーと言ってもよい出色のシーンです。

© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen

この撮影方法は4時間近くもの長い間、観る者の注意をスクリーンに縛り続けるためのテクニックであると同時に、もう一つ重要なのが主人公4人の繊細な演技を見せる為にも必要不可欠だったということです。今作で彼らの「重要な心の変化」は言葉で語られることはなく、極めて微細な表情の変化で表現されます。ちょっとした目の動きや口のゆがみ、目線のさまよいなどです。ここまでミニマムな演技設計で映画を撮った人を僕はちょっと知りません。

周囲がボケているがゆえに、観る者の視線がピントの合っている演者に集中する。これこそがフー・ボーがこの撮影方法を採用した最大の理由だと僕は思います前に論じた『マッドマックス 怒りのデスロード』も言葉を極力廃した目の演技が凄かったですが、今作はそれを完全に凌駕しています。

この「微細な表情の演技」を堪能しなければ、本作を観る意味はないと言っても過言ではない。特に3時間20分から5分以上に渡って続く、チャン役のチャン・ユーの演技(顔芸)は凄まじいです。映画が好きで本当に良かった、そう思える素晴らしいシーンです。言葉にしないからこそ、より多弁に彼の心の痛みと葛藤が垣間見える……。フー・ボーはまさに現代の巨匠であると言っても過言ではないでしょう。

© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen

3. フード表現の巧みさ

映像表現における「フード理論」とは料理研究家の福田里香さんが提唱した概念ですが、大人気ラジオ番組、「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」で初めて披露され、映画好きの間で話題をさらいました。詳しくは以下の書籍をお読み頂きたいのですが、食べ物をどのように扱うかに、そのキャラクターの性格や人間性は深く表現されるという考え方です。それらをまとめた、彼女が挙げるフード三原則が以下の3つとなります。

  1. 善人は、フードを美味しそうに食べる。
  2. 正体不明者は、フードを食べない。
  3. 悪人は、フードを粗末に扱う。
福田里香(2014)「ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50」

著作内で福田さんが述べるように宮崎駿や黒澤明等の優れた表現者は映画内でのフード表現にことさら配慮し、各キャラクターの人物造形を強力に補強しています。実はよく見ると今作内には「食べる」シーンがとても多いことに気づかされます。ブーもリンも登場するのはいずれも朝食のシーンからです。

しかし彼らの食事は非常に貧しい。ブーはパンなのか何か分からない物を囓るだけで、しかも食べる事自体を暴力的な父親に妨害され、ろくに口にすることも出来ない。一方、リンが与えられるのは朝食の体すら成さない潰れたケーキのみ。ちなみにリンはそれ以降のシーンでも肉体関係を持った副主任からもケーキ等のお菓子しか与えられていません。つまりまともな食事が与えられない=愛情の欠如を端的に表しているのです

ちなみにチャンの愛人は上昇志向の強い女性ですが、食事の際は左手をテーブルの下に置いたまま右手だけで食べます。これを日本人は奇異に感じるかもしれませんが、中国では左手はテーブルの下になるよう、膝の上に置くことが食事マナーです。小さくちょっとずつ食べることと合わせて、彼女という人間が端的に表現されています。

加えて、彼女はそれまで飲食店で友人らしい人らと一緒にいたにも関わらず、一切食べていないと言います。そしてチャンがいる時にお腹いっぱいに食べようとする。これは本質的には彼女がチャンを許容し、自分の懐に入れている=愛していることを表現しています。あれだけ酷いことを言うくせに……。女性って複雑ですね。

© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen

ちなみにチャンに到っては愛する彼女の前ですら、決して物を口にしようとはしません。彼はただ最初から最後まで延々煙草を吸い続けるだけです。これはフード三原則の2番目「正体不明者は、フードを食べない」に該当する上に、詳細部分で語られる「煙草を手放さない人は心に秘密を抱える傍観者」とも合致し、これはまさにチャンという人物の素性を表現しています。この様な的確な演出があるからこそ、言葉がなくても観る者にきちんとストーリーが伝わるのです。

4. 丁寧に時間をかける、ということ

映画として重要な音の表現でも今作は優れています。作品内で音楽は基本的に「旅立ち」を象徴しており、初めはごく微細なノイズのような演奏が旅立ちの時が近づくにつれて少しずつクレッシェンド(段々強く)されていきます。あえて「光」を見せたいがためにずっと曇り空でシーン展開していたのと同様に……。

ここにもフー・ボーの綿密な設計があります。ちなみに音楽を担当したのは中国のポスト・ロックバンド「Hualun(花伦)」です。特にメインの曲は素晴らしかったですね。

(C)2018 Hualun(花伦)

4時間近くという長時間の中、曇った空は徐々に明るくなっていき、音楽も確実にクレッシェンドしていく。この少しずつというのがとっても重要なのだと思います。人間の心なんて簡単&劇的には変わりません。少しずつ時間をかけて、ゆっくりと「想い」が発酵していく。そして彼らは旅立ちを決意するのです。

© Ms. CHU Yanhua and Mr. HU Yongzhen

映画という媒体の最大のデメリットはずばり「時間の制限」です。映画館における客の回転効率を上げる為、最近では1時間半が理想のサイズとなっている。単純なアクション映画ならそれでもいいでしょう。しかし恋愛映画を例に挙げると、互いに反発し合っていた両者の想いが少しずつ重なり合っていく表現などには徹底的に向いていない。なぜなら一見、無駄とも思える時間の積み重なりにこそ、本当の意味があるからです

繊細な人々の心の動き、それを表現するには現在の映画で設定される時間では不足であり、フー・ボーはそのタブーに挑戦しました。昨今、映画の時間制約から逃れられるNetflix等のドラマ制作に軸足を移す映画監督も少なくありません。フー・ボーがもしそんな制作環境を手に入れることが出来ていたのなら……。彼は少しだけ生まれてくるのが早過ぎたのかもしれません。

その3へ続く

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