インディアンと溶けたチョコレート、「めくらやなぎと、眠る女」 ─ その3【完】

Facebook にシェア
LINEで送る
Pocket

『溶けたチョコレートが意味するもの』

先に書いたその2では、本作品における最も大きな謎として、いとこが語るアパッチ砦とインディアンについて取り上げました。初版である「めくらやなぎと眠る女」では、明らかにこの『姿の見えないインディアン』と『めくらやなぎを育てる蠅たち』が関連づけられた構成となっています。

僕は、その沈黙の中で、いとこの耳の中に巣喰っているのかもしれない無数の微少な蠅のことを考えてみた。六本の足にべっとりと花粉をつけていとこの耳に入りこみ、その中でやわらかな肉をむさぼり食っている蠅のことをだ。じっとこうしてバスを待っているあいだにも、彼らはいとこの薄桃色の肉の中にもぐりこみ、汁をすすり、脳の中に卵を産みつけているのだ。そして時の階段をゆっくりと上方に向かってよじのぼりつづけているのだ。誰も彼らの存在には気づかない。彼らの体はあまりにも小さく、彼らの羽音はあまりにも低いのだ

村上春樹 (1984)「めくらやなぎと眠る女」新潮社
初出版の「めくらやなぎと眠る女」は上記短編集に収録

ここで特徴的なのは主人公である僕の冷淡さです。彼はいとこに内在する他の人々が気づかない、そしていとこすら気づいていない大きな問題を感知しています。それは「姿の見えないインディアンや蠅たち、そしてめくらやなぎ」と言い換えられた、密かに彼を浸食し、貪り続ける何かです。なのに僕は何も言わずにいとこと肩を並べて帰って行く。つまり彼を見捨てたのです。

この他人に対する非干渉とある種のシラケ感はこの話が収められた短編集「蛍・納屋を焼く・その他の短編」にある「納屋を焼く」にも通底します。(※これに関してはこちらをご覧ください)一方、10年以上の時を経て書かれた改訂版「めくらやなぎと、眠る女」ではどうでしょう。ちなみに以下の引用は先の箇所を削って、代わりに差し替えられた部分となります。

僕はそのとき、あの夏の午後にお見舞いに持っていったチョコレートの箱のことを考えていた。彼女が嬉しそうに箱のふたを開けたとき、その一ダースの小さなチョコレートは見る影もなく溶けて、しきりの紙や箱のふたにべっとりとくっついてしまっていた。

〜中略〜

その菓子は、僕らの不注意と傲慢さによって損なわれ、かたちを崩し、失われていった。僕らはそのことについて何かを感じなくてはならなかったはずだ。誰でもいい、誰かが少しでも意味のあることを言わなくてはならなかったはずだ。でもその午後、僕らは何を感じることもなく、つまらない冗談を言いあってそのまま別れただけだった。そしてあの丘を、めくらやなぎのはびこるまま置きざりにしてしまったのだ

村上春樹 (1996)「めくらやなぎと、眠る女」文藝春秋
改訂版の「めくらやなぎと、眠る女」はこちらの短編集に収録

『冥界からの帰還』

ここで主人公の僕は初めて、直子が既に高校時代の時点で大きく病んでおり、無意識のSOSを「めくらやなぎという物語」に託して語ってくれていたことに気づくのです。溶けたチョコレートとは、救うことができなかった彼女の心の象徴であり、それを気づきもしなかった主人公の傲慢さの象徴でもあります。切ない話です。なぜなら彼女はもうこの世にはいないのですから……。

その1で書いたように、この改訂版とは『ノルウェイの森』の前日譚であり後日譚でもある。さらに直子とキヅキの死の源流を辿る「冥界巡り」です。いとこは彼らのいる黄泉の国への水先案内人であり、だからこそ逆に主人公を現実へと引き戻しにもやってきます。

いとこが僕の右腕を強い力でつかんだ

「大丈夫?」といとこが訪ねた。

村上春樹 (1996)「めくらやなぎと、眠る女」文藝春秋

上記で太字にした「いとこが僕の右腕を強い力でつかんだ」に関しては、実際の本の中ではあえてこれだけが一行で、かつ文字の上部に点を打つことで最大限に強調されています。つまり本作中で一番目立つ箇所となっている。これが何を意味するのか?

やはりこれは僕の腕をつかんで、冥界から現実の世界へと引き上げるのが、いとこであると同時に彼の姿を借りた直子であり、キヅキでもあるからなのだと思います

そして初版では二人並んでバスの扉が開くのをただ待っているだけだったのに、改訂版では主人公の僕がいとこの肩に手を置いて「大丈夫だよ」と語りかける。この「大丈夫」が意味しているのはもちろん主人公のことですが、それに加え、自分を現実世界へと引き戻してくれた直子とキヅキに対しての「ありがとう」なのだと思います。

さらにもう一つの意味として、いとこに向かって「君は大丈夫だよ」そう語りかけているようにも見える。つまり10年以上の時を経て、他人に干渉しようとしない冷淡なエンディングから、他人への感謝と彼らに手を差し伸べるエンディングへと変わっているのです

『デタッチメントから、コミットメントへ』

なぜ、こうも大きな変更がなされたのか? それは初版と改訂版が書かれた10年以上空いた時間の中で作者、村上さんの意識が大きく変わったことが挙げられると思います。初版を書いた当時、彼の意識にあったのは「デタッチメント=社会的な物事や他者に関わらず孤立することで自分を高めていくこと」でした。

それが『ノルウェイの森』を経て、『ねじまき鳥クロニクル』以降は「コミットメント=他者と関わることで自分を高めていくこと」へと変容していったのです。改訂版が書かれたのはまさにこの『ねじまき鳥』の直後でした。

『ねじまき鳥クロニクル』はぼくにとってはほんとうに転換点だったのです。物語をやりだしてからは、物語が物語であるだけでうれしかったんですね。ぼくはたぶんそれで第二ステップまで行ったと思うのです。
『ねじまき鳥クロニクル』はぼくにとっては第三ステップのなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分でコミットメントということが関わってくるんでしょうね。

村上春樹 /河合隼雄 著(1996)「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」岩波書店
「ねじまき鳥クロニクル」以降の村上さんがどこへ向かおうとしたのか? これを読むと良く分かります。

このコミットメントを推し進める中で、村上さんがよく口にするようになった言葉に「壁抜け」があります。これは様々な媒体で散見されるようになりますが、ここでもキッチリとそれが述べられています。

コミットメントというのは何かというと、人と人との関わり合いだと思うのだけれど、これまでにあるような、「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。

村上春樹 /河合隼雄 著(1996)「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」岩波書店

『壁抜けの果てに見えたもの』

これって、まさに「いとこが僕の右腕を強い力でつかんだ」ですよね? 彼を水先案内人に冥界の底へ下りついた時、主人公である僕は直子やキヅキの死の原因を初めて理解し、深い悲しみと絶望に囚われます。

しかし、壁を越えることができたからこそ、彼ら死者もまた僕に対して「アクセスすること=腕をつかむこと」ができ、その結果、現実の世界へと送り届けてくれたのです

あくまでも個人的な感想ですが、この「めくらやなぎと、眠る女」をもって、ようやく『ノルウェイの森』の幕は引かれた、そう思っています。

直子とキヅキ、二つの死の源流を遡ることで知った己の傲慢さと無関心が引き起こした罪の自覚、そして「冥界巡り=壁抜け」を経たからこそ、ようやく見えだした回復の予兆、これらを抱えて主人公は現実世界へと帰っていきます。第二の直子ともいうべき、いとこの肩に手を置いて……。

僕は意識を現実に戻し、ベンチから立ち上がった。今度はうまく立ち上がることができた。吹き過ぎてゆく五月の懐かしい風を、もう一度肌に感じることができた。僕はそれからほんの何秒かのあいだ、薄暗い奇妙な場所に立っていた。目に見えるものが存在せず、目に見えないものが存在する場所に。でもやがて目の前に現実の28番のバスが留まり、その現実の扉が開くことになる。そして僕はそこに乗り込み、どこか別の場所に向かうことになる。

僕はいとこの肩に手を置いた。「大丈夫だよ」と僕は言った。

村上春樹 (1996)「めくらやなぎと、眠る女」文藝春秋
Facebook にシェア
LINEで送る
Pocket