インディアンと溶けたチョコレート、「めくらやなぎと、眠る女」 ─ その2

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『アパッチ砦とインディアンが意味するもの』

本作品中、誰もが一番の謎として取り上げるであろう箇所が、いとこが語るジョン・フォードの『アパッチ砦』の一節だと思います。ちなみに初版では『リオ・グランデ砦』となっていますが、これは完全な誤りなので修正したのでしょう。それでは改訂版「めくらやなぎと、眠る女」から、その部分を引用してみます。

「出だしのところで、西部の砦に新任の将軍がやってくるんだ。その将軍を古株の大尉が出迎えるんだけれど、それがジョン・ウェインだった。将軍はまだ西部の事情をよく知らない。砦のまわりではインディアンが反乱を起こしているんだ」

いとこはポケットから折り畳んだ白いハンカチを出して、それで口元を拭いた。

「砦に到着すると、将軍はジョン・ウェインに向かって言うんだ。『ここに来る途中でインディアンを何人か見かけたぞ』って。するとジョン・ウェインは涼しい顔でこう答えるんだ。『大丈夫です。閣下がインディアンを見かけたというのは、つまりインディアンはそこにいないということです』ってね。正確な台詞は忘れちゃったけど、だいたいそんなだったと思うよ。どういうことだかわかる?」

〜中略〜

いとこは眉をしかめた。「僕にも意味はわからないんだけれど、でもね、耳のことで誰かに同情されるたびに、どうしてかそれを思い出すんだよ。『インディアンを見かけたというのは、つまりインディアンはそこにはいないということです』ってさ」

村上春樹 (1996)「めくらやなぎと、眠る女」文藝春秋

ちなみに映画のスクリプト(脚本)では「I suggest the Apache has deteriorated since then……judging by a few of the specimens. I’ve seen on my way out here.」となっており、僕の拙い訳だと「私がここへ来る途中に見た連中から察するに、奴ら相当に堕落してたぞ」となります。 

それに対してのジョン・ウェインの答えが「Well, if you saw them, sir, they weren’t Apaches.」すなわち「もしあなたが彼らを見たというなら、それはアパッチではありません」となるのです。

Fort Apache (1948) RKO Radio Pictures
不朽の名作「駅馬車」でも有名な巨匠ジョン・フォードの騎兵隊三部作の一作目です。ちなみに「リオ・グランデ砦」は三作目に当たります。

ここだけ取り出すと何のこっちゃという感じですよね。しかし前後の話の流れを見れば分かるのですが、新任の上官である大佐(将軍から降級させられています)がジョン・ウェインにアパッチなんてつまらん連中だと言ったのに対し、彼はアパッチは白人を最も苦しめたスー族にも劣らない勇敢な連中だと答えます。

しかし大佐はそれを鼻で笑い、ここへ来る途中で奴らを見たが酷く落ちぶれていたと言い返します。それに対しての返答が「もしあなたが彼らを見たというなら、それはアパッチではありません」なのです。つまり、そんな奴らはアパッチなんかじゃない、偽者だ。お前は事態の深刻さを何も分かっていないと暗に皮肉っているのです。

これを本作に当てはめるなら、いとこは医者や自分に同情する連中は事の本質を何も理解していない、と無意識的に断言していることになります。これこそが声にならない、いとこの『心の叫び』であり、彼はこの話をすることで主人公である「僕」に対して、SOSのサインを出しているのだと思います。だからこそ、この話の後で「僕」に耳をのぞき込んでもらうのでしょう。しかし鈍感な主人公は気づきもしません。

「どうだった、何か変わったところはあった?」

「外から見るかぎりでは、とくに変わったところはないようだね」

「ちょっとした雰囲気とかさ、そういうことでもいいんだけど」

「ごく普通の耳だよ」

いとこはがっかりしたみたいに見えた。僕は間違ったことを言ったのかもしれない。

村上春樹 (1996)「めくらやなぎと、眠る女」文藝春秋

『彼らの心の叫び=アパッチ砦=めくらやなぎ』

このいとこの『心の叫び=SOSのサイン』と対になるのが、「彼女」すなわち『ノルウェイの森』における直子が語る「めくらやなぎ」の話です。高校時代の遠い夏のある日、かつて彼女からそんな話を聞かされていたことを、主人公はいとこのおかげで思い出します。

「めくらやなぎの外見は小さいけれど、根はすごく深いのよ」と彼女は説明した。「じっさいのところ、ある年齢に達すると、めくらやなぎは上に伸びるのをやめて、下へ下へと伸びていくの。まるで暗闇を養分とするみたいにね」

〜中略〜

「それで……その蠅は何をするの?」

「女のからだの中で、その肉を食べるのよ、もちろん」と彼女は言った。

「むしゃむしゃ」と友だちは言った。

村上春樹 (1996)「めくらやなぎと、眠る女」文藝春秋

『ノルウェイの森』を読めば、これはまさしくその後、彼女の身に起こる出来事の正確な予言に他ならないことが分かります。小学生の時に姉の自殺の第一発見者となり、その時、死体と共に過ごした5、6分間は、彼女の言葉を借りれば『体の中の何かが死んでしまった』ような衝撃をもたらし、心の深い部分をひどく傷つけ、損ないました。

それに加えて一族の血に流れる精神疾患の話や、極めつけに訪れたキヅキの自殺。それらがもたらした様々な呪いが彼女の奥底で少しずつ根を伸ばし続け、精神を喰らっていきます。そして、あのような結果となるのです……。

村上春樹 著(2009)「めくらやなぎと眠る女」新潮社
「ノルウェイの森」を読んだ後に本作を読んでみてください。圧倒的に切なくなります。

『イノセンスの代償』

いとこの「アパッチ砦」と直子の「めくらやなぎ」。この2つのSOSは深く静かに僕らの胸に突き刺さります。だからこそ、いまだにこの物語を読み続け、論じる人がいるのでしょう。2人は己の中に不幸を招き寄せる何かがあるのは理解している。けれどそれが何なのかまでは分からない。この『もどかしさ』こそが胸を打つんです。

誰にでもあるはずです。自分の中に大きな問題があって、それを解決しない限りは先に行けない。けれどその問題を「言葉」ですくい上げ、「理解」することができない。どうしてなんだ? 何がいけない? その『もどかしさ』は刃となって己にふりかかってくる。

「どうしてよ?」と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。「肩の力を抜けば体が軽くなることぐらい私にもわかっているわよ。そんなことを言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい? もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのいよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって─どこかに吹き飛ばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの? それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」

村上春樹 著(1987)「ノルウェイの森」講談社

この彼女の台詞に救われた人もいることでしょう。あぁ、世界のどこかに自分のことを分かってくれる人がいる。私は一人じゃない、そう思える。

直子を始めとする村上作品のキャラクターが『もどかしさ』とその果ての絶望、それらと引き換えに守り抜いたもの、それは「イノセンス」です。村上さんがデビュー当初から10年ほどの間、繰り返し作品で描いていたのは社会的な通過儀礼を経て大人になれない者たち、すなわち直子やキヅキ、初期三部作における鼠などでした。

『大人になれなかった者たち』

彼らは大人になれず、結果的に「死」を選ぶことで、消えることのないイノセンスを手に入れます。「納屋を焼く」の評論でも述べましたが「イノセンス」とは誰もが生まれた当初は持っている純粋さや輝きのことであり、生きていく過程、すなわち大人になることで消えていくものです。

これを本当にどうしようもないぐらいに素晴らしく描写した一節が『ノルウェイの森』の中にあります。永沢さんの彼女、ハツミさんについてです。思えば彼女もまた自殺を選んだ一人でした。

そんな圧倒的な夕暮れの中で、僕は急にハツミさんのことを思い出した。そしてそのとき彼女がもたらした心の震えがいったい何であったのかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた〈僕自身の一部〉であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆ど泣きだしてしまいそうな悲しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰がなんとしてでも彼女を救うべきだったのだ。

村上春樹 著(1987)「ノルウェイの森」講談社

「物語(フィクション)」の持つ社会的意義とは通過儀礼を経て、その先へ行く人々=大人を描くことで、この社会の構成成員を創り出すことです。しかし、初期の村上作品の登場人物たちは皆がそれを否定しました。人は本質的に自由に生きたいと願うものであり、社会化していく己に対して潜在的な恐怖と苛立ちを募らせています。

そんな僕らにとって「イノセンス」を守り抜こうとする、村上作品のキャラクターたちはある種の英雄なのでしょう。だからこそ世界中で読み継がれている。

デビューから40年が過ぎましたが、書く上での基本的なスタンスは何も変わっていないと思います。

直子やキヅキ、ハスミさん、そしていとこは、この世界に馴染めず、それ故に傷つき、苦しんでいます。そんな彼らの痛みや切実さを共有することで僕らは癒される。初めて読んだ時から実に30年近い時が経ちましたが、それでも彼らの切実さは今でも、いや個人的には人生の折り返し地点を過ぎ、下り坂へと足を踏み入れた今だからこそ、どうしようもなく輝かしいものに見えるのです。

その3へ続く

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