「あみ子」から「あひる」へ、 今村夏子の戦ったもの ─ その1

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『5年後の再スタート』

日本文学史に残るであろう大傑作『こちらあみ子』を発表した今村夏子さんはその後、約5年間沈黙しました。これは仕方のないことだと思います。前に書いたあみこの評論でも述べましたが、あんなとんでもない作品を書いてしまった人間は決して無傷ではいられない。それほどの作品でした。それにしても移り変わりの早いこの社会で5年です。それはあまりにも長い沈黙でした。

そして満を持してと言うべきか、ひっそりとした再スタートが今作『あひる』であり、既に終刊してしまった小説と短歌、翻訳を中心とした文学ムック『たべるのがおそい』(素晴らしいタイトルですね)の栄えある第1号に掲載されました。

主宰者である西崎憲さんは凄い方ですね。今村さんに再び筆を取らせた。これだけでも日本文学に対する一大貢献をされたと思います。ちなみに表紙の作家記載順においても穂村弘さんの次なので西崎さんの彼女に対する思い入れの深さが分かります。ちなみにこの方は読書家にとって毎年恒例の一大イベント「日本翻訳大賞」の創設者の一人でもあります。

ある意味伝説の一冊。amazonでkindle版が手に入ります。

『三人称から、一人称へ』

『あひる』は一人称で書かれています。僕は今村さんは人称表現に関して、かなり自覚的にコントロールされる方だと思っています。『こちらあみ子』は三人称で書かれているものの、限りなく一人称に近い。けれど三人称でなければならない「絶対的な」意味がある。これは前に書いたこちらをご覧ください。

さらに『こちらあみ子』に同時収録されている『ピクニック』は興味深い作品です。この作品は一応は三人称形式なのですが主語が「ルミたち」なのです。通常、小説における主語、すなわち主人公を表す言葉は「私」や「ぼく」などの単数形が基本です。けれど『ピクニック』では「ルミたち」という複数形。これにより不思議な視点が形成される。よくもまぁ、こんなことを考えつくものだと感心します。

『こちらあみ子』以外にも上記の『ピクニック』や『チズさん』を収録。

僕は前の評論で、なぜ今村さんが三人称で『こちらあみ子』を書いたのか? それはこの小説を読む僕らが結局のところ「あみ子の住む世界の外側にいる人間」であり、だからこそ彼女をあえて三人称として「外」から描くことで、彼女の内面をブラックボックスとして見えなくしたのだと書きました。

加えて今村さん自身もまた、僕らと同じこの社会に属する人間である以上、本当のところあみ子が何を考え、感じているかは分からない。だからこそ三人称という外部の視点から、あみ子に「寄り添って」この小説を書いたのだと

けれど本作『あひる』では主語は「わたし」であり、れっきとした一人称小説です。つまり作者である今村さんと「わたし」はある意味イコールである、そういうことだと思います。

『2階から独りで世界を眺める、わたし』

本作の主人公である「わたし」は何やら医療系の資格を得るため勉強中であり、社会的ポジションを持たない「中途半端」な存在です。彼女は物語の舞台である一戸建ての家の2階に住んでいます。そして文中に明確な記述はありませんが、おそらくそれ以外の家族みんなは1階に住んでいる。

『あひる』以外にも同時収録された『森の兄妹』は傑作だと思います。

そこから彼女は「下の世界=社会」で起こることを観察しています。『こちらあみ子』であみ子が「社会」のメタファーである「赤い部屋」の様子を襖をそっと開けて、覗き見しているのと同じです。あみ子は覗くのを止めろと皆から告げ口されますが、今作でも似たようなシーンが見られます。並列して比べてみましょう。

「あみ子が見とるよ。先生」

「先生。後ろ、後ろ」ひとりの男の子が元気いっぱい立ち上がった。腕をまっすぐに伸ばして筆の先をあみ子に向けた。母の黒い頭がくるっと回転したと思ったら、次の瞬間、細くとがった二つの目がこちらを見て、とまった。

ゆっくりと近づいてくる母のあごの下のほくろを見上げながら、あみ子は堂々と訴えた。「入っとらんもんね。見とっただけじゃもん

今村夏子 著(2011)「こちらあみ子」筑摩書房

ある日の夕方、授業を終えて一番乗りでうちへ来た男の子が、

「のりたまっ」

と叫んだ。わたしはその叫び声に驚いて、思わず勉強の手を止めて二階の窓から顔を出した。

男の子はギョッとした顔でこっちを見上げたまま動かなくなった。縁側から出てきた母が、どうしたの、と声をかけるとまっすぐに私の顔を指差して、

「人がいる」

と言った。娘よ、と母がこたえた。

今村夏子 著(2016)「あひる」書肆侃侃房

先の評論でも書いたようにあみ子はこの社会では「ばけもの」扱いされています。本作『あひる』では弱められてはいるものの、主人公が社会の中で異質な存在であることに変わりはありません。

違いと言えば『こちらあみ子』では作者である今村さん自身はあみ子に同化しなかった。それ故の三人称だったのに対し、『あひる』では今村さんが主人公である「わたし」=アウトサイダーとなって、2階からこの社会を観察しているとも言える。それが5年を経て、最も変わった点ではないでしょうか。

その2へ続く

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