人は絶対に分かり合えない、「こちらあみ子」が突きつけた絶望、そして ─ その3【完】

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『三人称と、巧妙な仕掛け』

今作で見事だと唸ったのが今村さんがあえて三人称でこの小説を書いたこと。加えてその使い方です。僕は小説家でないので分からない部分はありますが、それでも文章を生業にする人間の端くれとして、通常『こちらあみ子』のような作品を着想すれば十中八九、一人称で書くと思います。

一人称が持つ、読者を主人公の内面世界に引きずり込むという、小説ならではの力を最大限に利用しようと考えるでしょう。

凄い作品であるのはもちろんですが、その技巧性の高さには本当に驚かされます。

けれど今村さんはそうしなかった。この小説は三人称で書かれています。何故でしょう? それはこの小説を読む僕らが「あみ子の住む世界の外側にいる人間」であるからです。だからこそ彼女をあえて三人称として「外」からの視点で描くことで、彼女の内面をブラックボックスとして見えなくした。

加えて今村さん自身もまた、僕らと同じこの社会に属する人間である以上、本当のところあみ子が何を考え、感じているかは分からない。だからこそ三人称という外部の視点から、あみ子に「寄り添って」この小説を書いたのだと思います

と言うのもこの小説は三人称なのですが限りなく一人称に近い三人称なのです。例えば一人称の基本的ルールである、主人公が見ているものしか書かない。それが徹底されています。あみ子がその場にいないシーンはひとつたりとも書かれていないのです。だったら一人称で書けばいい。けれど今村さんはそうしない。

今作では常に主語は「あみ子は」で固定され、よくある三人称的な「彼女は」はひとつも出てこない。これを繰り返すことで限りなく一人称に近い三人称が成立する。あみ子に同化はしないけれど限りなく近づき寄り添っている。この絶妙な視点の距離感。安易に使いたくないですが、もう天才! そう思ってしまいます。

『応答せよ。応答せよ。こちらあみ子』

文中で象徴的な存在がトランシーバーです。これは社会の内と外をつなぐ、夢の架け橋などという甘いものではありません。それはほとんど機能不全な装置です。なぜなら本作を通じて示されるのは結局のところ人は分かり合えないという、辛くも切ない現実だからです。

応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」そう呼びかけ、一瞬だけ「交感」が成立した以下の場面でもお互いの感情はその後、決定的にすれ違っています。

そう言った直後、耳がかけらのような言葉をとらえた。それは機能を失ったトランシーバーの奥から伝わる、初めての応答だった。一瞬のことだった。そのひとは、とても小さな声でたったひとこと、「は?」と言ったのだ。

唾を飲みこみ、あみ子はもう一度言ってみた。

「……幽霊がね、おるんよ。ベランダのところにね」そこまで言うと唐突に怖ろしさが湧き上がり、とまらなくなった。「どうしよう。こわいこわい。こわいよ。こわいこわいこわいこわいっ。こわいんじゃこわいんじゃ助けてにいちゃん」

雷のような音が足を伝わり、バシンと鋭い音をたてて部屋の襖が開けられた。見上げるとそこにライオンみたいなひとが立っていた。ぽかんと口を開けているあみ子に向かって、仁王立ちしたライオンのひとは軽くこくりと頷いた。

中略

そっとなでてあげようと、たまごに向かって右手を伸ばした。だが指先が巣に届く寸前で、傷だらけの大きな手によって遮られた。あっ、と思ったときには遅かった。田中先輩の右手はたまごもろとも、巣をわしづかみにした。短く乾いた音が鳴り、太い指の間から小枝がこぼれた。素手に巣とたまご三つを握りしめ、先輩は遠くの空を仰ぎ見た。あみ子もつられて空を見た、次の瞬間。

「どりゃあっ」

かけ声とともに、巣はぶん投げられた。あみ子は声を上げることもできずに、高く高く打ち上げられてゆく巣とたまごたちを目で追った。

今村夏子 著(2011)「こちらあみ子」筑摩書房

どうしようもなく美しく、そして残酷なシーンです。昔から最も長く人生を共有した兄。そんな彼と一瞬だけ、ようやく人生を通じて初めての「交感」が成立した。それが共に空を仰ぎ見た一瞬です。その時だけは兄もあみ子も同じものを見ていた。それはこれで二人が分かり合えるのではないのか、という希望です

しかし兄が巣もろともたまごを投げ捨てた瞬間、それはあっけなく砕け散ります。そしてここで二人の関係も終焉を迎えるのです。あみ子は父や母、のり君はおろか兄とさえ分かり合えなかったのです……。

今村さんは『こちらあみ子』で受けたダメージから回復するまでに5年かかりました。その戦いの結果が次作の『あひる』です。

『それでも希望はあるか?』

それでも微かな希望は残されました。それは上記で述べたように例え一瞬であっても、兄とあみ子は「交感」を果たしているからです。そしてもう一人、ずっとあみ子を見つめ続けた少年がいました。

笑っていた坊主頭の顔面が、ふいに固く引き締まった。それであみ子は自分の真剣が、向かい合う相手にちゃんと伝わったことを知った。あらためて、目を見て言った。

「教えてほしい」

中略

引き締まっているのに目だけが泳いだ。だからあみ子は言葉をさがした。その目に向かってなんでもよかった。やさしくしたいと強く思った。強く思うと悲しくなった。そして言葉は見つからなかった。あみ子はなにも言えなかった。

今村夏子 著(2011)「こちらあみ子」筑摩書房

けれどもこんな大切な一瞬でさえ、彼女はやがて忘れてしまう。今作を読み進めれば分かるように、あみ子は長期記憶を有し続けるのが極めて苦手な人間だと描かれています。それはエンディングでより一層明確になっていく。

不覚にも一回目は読み飛ばしてしまいましたが、二回目に読んだ時、気がついて鳥肌が立ちました。あみ子はこの時、既に「あみ子」という己の名前すら喪失しかかっているのです。そしておそらくはさきちゃんのことも……

祖父の家の庭先で、夏の初めに竹馬に乗ってやってくる友達を待っているとき、前進しているようには見えない、ただ小刻みに揺れているだけの影を見つめているときに、いきなり名前を呼ばれて驚いた。あみちゃんな。

「あみちゃん、あみちゃんな」

すみれの入った袋を落とした。あみ子はまだびっくりしている。でも呼ばれたのだから、はあいとこたえて祖母の声がする家の方へと向かう。途中、気になって振り返り、すぐにまた前を向いて歩きだす。だいじょうぶ。あの子は当分ここへは辿り着きそうもない。

今村夏子 著(2011)「こちらあみ子」筑摩書房

『不可能に立ち向かうということ』

あみ子は精一杯、この社会の中で戦い抜き、この社会のルールにおいて敗れ、その結果、この社会の中で何も得ることなく、この社会から強制的に退場させられました。そこに意味はあるのでしょうか?

けれどそんなもの考えるだけ無駄でしょう。なぜなら彼女は最初から何も持っていなかったし、だからこそ何も失っていないから。そのような意味において彼女は本当に『ばけもの』なのです。

ただ、ひとつだけ重要なこと、それでも彼女はトランシーバーを用いて「僕たち」と交信しようとしたこと。そしてすれ違いとは言え、それに感応した人がいたことです。人と人は絶対に分かり合えない。それでも交信を止めない。これは例えるならキリスト教における「不可能の可能性」だとも言えるでしょう

これを端的に述べると人は神の意志など絶対に、永遠に分かりっこない。神はそれほど超越的な存在なのだから……。けれどそれに甘んじ、ただ呆けて暮らしていては人間に成長などない。

例え絶対に無理であっても虚子坦懐に神の意志を考察し続けることで、人はもしかしたら、いつか神の足先をかすめるぐらいの地点には到達できるかもしれない。その可能性を夢見て、絶対に無理だと分かっていながらも、その絶望を胸に秘めながらも、それでも神の意志を考え抜くこと。

今村さんは図らずも、この「神」なき日本において、まさに「神=宗教のような何か」を立ち上げたんだと思います。すげぇよ……。

境界を超え、一歩踏み出し、社会の中へ。『むらさきのスカートの女』で遂に今村さんはこちら側の世界へと足を踏み入れてきました。
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