人は絶対に分かり合えない、「こちらあみ子」が突きつけた絶望、そして ─ その1

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『日本文学史に残るであろう大傑作』

小説家(芥川賞作家)、今村夏子さんのデビュー作であり、かつ大傑作である『こちらあみ子』を読んだ人なら頷いてくれると思うのですが、初読後はちょっと言葉が出ませんでした……。なぜならこの作品の中で、既存の言葉では上手く表現できない、「初めて触れる何か」が立ち上げられ、その結果、僕にとって「初めてとなる読書体験」をもたらしてくれたからです。本当に凄い作品とはこのようなものだと思います。

しかしこれだけの作品を、しかもデビュー作で書いてしまうということは作家にとって、とんでもない十字架を背負うということでもある。僕は小説家ではないので分からない部分もありますが、それでも良質な「書く」という行為はある種の「旅」をするようなものだと思っています。

そして『こちらあみ子』を書くというのは想像を絶する「旅」だったはずです。こんなものを書いてしまっては作者自身も絶対に無傷ではいられない

まだ読んでいないなら是非どうぞ。これまでにない「圧倒的な読書体験」が味わえます。

それに加えて、こんな凄いデビュー作を超えることができるのか? 永遠にこれを超えられないのではないか? 少なくとも僕だったらそのような恐れを抱くことでしょう。この見立てが正しいのかどうかは分かりませんが実際彼女は今作を出版した後、5年近くもの間、沈黙します。

『こちらあみ子』には現在にまで連なる今村さんの作家性が色濃く反映されています。巷でよく言われるデビュー作はその作家の根源を語るというやつですね。彼女の場合、一言で言うと「この社会を構成する境界線の一歩だけ外に立って、こちらの世界を俯瞰する視点を有する」ということだと思います。この「境界線の一歩だけ外」というのが重要で、そこに毅然と立ち続けたあみ子に対して、僕らはあんなにも胸が締め付けられ、感動したのでしょう。

『境界に立つ、ということ』

そもそも境界に立つというのはとんでもなく辛いことです。いっそ完全なるアウトサイダーとしてこちらの世界から切り離され、向こう側に行けたら楽なんでしょう。けれど今村さんはあみ子として、デビュー作でその地点に立ちました。

そこから見えるであろうもの。それは僕らの暮らす一般社会の滑稽さ、そして素晴らしさ。それと同時にこの社会の外に広がる豊かなるもの。けれどこちらの世界に属しないあみ子は僕らの住むこの社会からは何も受け取ることができません。

あみ子は「言葉」という一般社会にアクセスするツールを持ってはいますが、そのツールを用いた結果、何が起こるのかという「共通認識」を他者と共有することができません。

それは彼女があまりにも純粋である証であり、度を超えた純粋さとはこの社会の埒外にあるという証明でもあります。怖いことです。なぜなら真に純粋であるということは「反社会的」であり、人を傷つけるということだからです。以下の文章をご覧ください。

「好きじゃ」

「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。

「好きじゃ」

「殺す」のり君がもう一度言った。

「好きじゃ」

「殺す」

「のり君好きじゃ」

「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。

今村夏子 著(2011)「こちらあみ子」筑摩書房

好きじゃ」と繰り返し叫ばれ、あみ子の中で「愛」が高まっていくのと同時に、その「愛」の言葉が逆にのり君を傷ついていく。本当に凄い文章です。どうやったらこんなものが書けるのか。ここも含めて、僕はこの小説を読み終えた後、猛烈に感動しているのと同時に、自分がいったい何に感動しているのかまったく分かりませんでした。本当に初めてと言っていい読書体験です。

デビューから5年後に書かれた2作目。この間、今村さんに何があったのでしょう。

『ばけもの』

今作で読者の皆が感じるであろう切なさをかき立てるもの。それは上記で引用したように彼女の善意や想いがことごとく相手に届かず、そればかりか逆に相手を深く傷つけてしまうことです。特に最もその被害を被ったのが母親であり、彼女は結果としてあみ子に破壊し尽くされます。

あみ子自身は彼女のことを救いたい、真剣にそう思っていたのにも関わらず……。以下は今作で最も残酷なシーンでしょう。

「きれいじゃろ」声をかけてみたが振り返ろうともしない。「ねえきれいじゃろ」すごいね、きれいね、と言ってもらえると思ったのだ。「手作りよ。死体は入っとらんけどね」

母はあみ子に背を向けたままその場にしゃがみこみ、声を上げて泣きだした。最初、咳をしているのだと思った。高い音でコンコンと言っていたから。それが呻き声のようなものになったかと思うとすぐに確かな発声へと変化した。泣き声は大きく響き渡り、兄が玄関から飛びだしてきた。「どうしたん。お母さんどうしたん。あみ子」

「わからん。いきなり泣きだした」

「なんで、あっ。なにこれ」

「どれ?」

「……なにこれ」

「それ、おはか」

今村夏子 著(2011)「こちらあみ子」筑摩書房

母は「死」を穢れとして忌み嫌っています。だからこそ以前あみ子の作った「金魚のおはか」と「トムのおはか」を「汚らしいもの」と言ったのでしょう。けれどあみ子は違う。墓を作るというのは彼女にとっては「きれいな=神聖な」行為です。

だからこそ「きれいなもの」の最たる象徴である、のり君の字でそれを飾ってプレゼントした。彼女の新しい門出を祝福するために。そしてこれによって、二人の間は決定的に引き裂かれ、母の人格も破壊されてしまいます。

そればかりではありません。あみ子がこの社会の中で最も愛し、「きれいな=神聖な」存在として崇めていた、のり君との仲もまた終わりを告げるのです。

最善であろうとする行為を追求すればするほど、最低の結果を生んでいく。先にも書いたとおり、真なる純粋さを有する者はこの世界では「反社会的」であり、彼らの善意は人を傷つける。だからこそ「ばけもの」としてしか存在することができない。何とも残酷な真実です……

その2へ続く

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