「一人称単数」から始まった、村上春樹の新たな旅 — 「街とその不確かな壁」 — その5

『村上春樹が、語り続けてきたもの』

今作で面白いのが、巻末に村上さん自身の筆による「あとがき」が付いていることです。過去作のリブート(再起動)だから、説明が必要だろうと思い書いたと述べていますが、中でも興味深かったのがその最後を飾る以下の文章です。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られたモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ—と言ってしまっていいかもしれない。

要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はその様に考えているのだが。

村上春樹(2023)「街とその不確かな壁」新潮社

ここでは2つの思いが語られていますが、まずは前段の「作家とは限られたモチーフを書き続ける存在である」の方から見ていきましょう。作家、村上春樹が描き続けてきたもの、そのモチーフに関して、僕は彼が初期に影響を受けたトルーマン・カポーティからヒントを得たのだと思っています。

それは「今ある現実世界」と、それと同時平行して存在する「もうひとつの世界」です。村上作品に出てくるキャラクターたちはいずれも今、生きている現実の世界に馴染むことができず、そこからの逃避手段として、自分の心の中に、逃げ込むことのできる「もうひとつの世界」を持っています。

カポーティはそれを『ティファニーのようなところ』『誕生日の子どもたちのようなところ』『二人の女の子が踊っていた場所』として表現しています。これだけ読むと何のこっちゃだと思うので過去の『納屋を焼く』の評論をまずはお読みください。

しかしカポーティと村上さんの大きな違いは、カポーティはそれをごく狭い「心の郷愁が行き着く場所=ティファニーや、誕生日の子どもたちのようなところ」としてしか構築できなかったのに対し、その「逃避世界」を実は誰もが有しており、それはどこか地下深くのような場所で繫がっていて、とてつもなく大きな広がりをもっているんじゃないのか? それを想像し、かつ確信したことだと思います。

そして『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』以降、今作までずっと、村上さんは「今ある現実世界」と、同時平行して存在する「もうひとつの世界」を行き来する物語を書き続けています。その出発点が実は『納屋を焼く』という短編だったのでないか? その1でも述べた様に村上さんの短編小説はその後の長編に繋がる大事な「道しるべ」です。『街とその不確かな壁』においては、それにあたるのが『一人称単数』でした。

『私とは、いったい何なのか?』

前述の引用文前段に続き、下段の「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある」に関してですが、これを読み解くのに補助線となる作品があります。それは村上さんが戦後日本の代表的小説家6人について語った『若い読者のための短編小説案内』です。

ちなみにこれは彼が1991年〜93年まで、アメリカのプリンストン大学に招かていた期間、週に一コマだけ大学院の授業を持たなければならなかった際の、その授業内容をまとめたものとなっています。そのまえがき部分で、かなり核心的なことを語っています。

僕はこれらの作家が小説を作り上げる上で、自分の自我(エゴ)と自己(セルフ)の関係をどのように位置づけてやってきたか、ということを中心的な論題に据えて、それを縦糸に作品を読んでいくことにしました。それはある意味では僕自身の創作上の大きな命題でもあったからですし、またその「自我表現」の問題こそが、僕を日本文学から長い間、遠ざけていたいちばんの要因ではあるまいかと、薄々ではあるけれど以前から感じていたからです。

村上春樹(1997)「若い読者のための短編小説案内」文藝春秋

この自我(エゴ)と自己(セルフ)の関係ですが、『街とその不確かな壁』の中では「自我=こうありたいと願う己の理想の姿=本体」と「自己=現実生活の中、他者との関係性で構築された己の姿=影」に置き換えられ、どちらが実体なのか? 生きていくのに影は必要なのか? など様々な場面で何度も問いかけが成されています。

何より「壁」こそが、自我と自己の境界線であり、「壁」に分断されたものこそ、「本体=自我」と「影=自己」に他なりません。その視点で以下一連の引用を読んでみてください。

【門衛の言葉影なんて実際、なんの役にも立ちゃしないんだ。

〜中略〜

門衛の言葉そのくせ口だけは一人前に達者ときている。あれはいやだとか、これならまあよかろうだとか、自分一人じゃ何もできんくせに、小理屈だけはたんまり持ち合わせている。

私が彼女に語る言葉影は光のあるところでは人(本体)と行動を共にし、光のないところではそっと姿を隠す。そして真っ暗な時間がくれば、共に眠りに就く。しかし人と影が引き離されることはない。目に見えるにせよ見えないにせよ、影は常にそこにいる。

影が主人公に語る言葉ここにいる彼女が実は影で、壁の外にいた彼女が実は本体だったという可能性は考えられませんか?

〜中略〜

そしてこういう仮説を得たんです。ここは実は影の国なんじゃないかって。影たちが集まり、この孤絶した街の中でみんなで身を寄せ合い、息を凝らすように暮らしているんじゃないかって

村上春樹(2023)「街とその不確かな壁」新潮社

今作は表層的には「過去の罪=トラウマ」からの脱却を試みるひとりの孤独な中年男性(村上さん自身)の話であると同時に、強烈な「自我(エゴ)」に悩む孤独な魂が、自我を形成する「壁」を解体し、それを乗り越えようとする普遍的なテーマを持つ物語でもあるのです。

そして「自我=エゴ」こそが、人間を人間たらしめてきた概念であると同時に、実は現代社会において「自我=エゴ」崇拝のもと、それを規定する「壁」が高くなり過ぎたことこそが、実は人間を苦しめているのではないか?

これこそが遙か40年以上前に封印され、幻となった中編小説『街と、その不確かな壁』で村上さんが発見したテーマなのでしょう。そのいったん断念されたモチーフを、その他様々な想いと共に40年越しに結実させたのが今作なのです。

その6へ続く