「一人称単数」から始まった、村上春樹の新たな旅 — 「街とその不確かな壁」 — その6【完】

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『自我と、自己への探求』

自我(エゴ)と自己(セルフ)の関係性についてですが、村上さんはこれまでにもかなりこだわって追求しており、その5でも述べた『若い読者のための短編小説案内』では日本の代表的小説家らをその視点から紐解いています。

以下の図は村上さん自身の筆によるもので、彼が考える一般的な「自我=こうありたいと願う己の理想の姿=今作における本体」と「自己=現実生活の中、他者との関係性で構築された己の姿=今作における影」の関係性です。「外界=現実世界」に対し、そこから隔離され、奥底にしまわれたものが「自我=ego」であり、外界と自我の中間地点に存在し、緩衝材的な役割を果たしているのが「自己=self」です。

そして「自我=ego」は外へと向かうベクトルを有し、それを押さえつけているのが外界から内へと向かう様々な圧力です。

村上春樹(1997)「若い読者のための短編小説案内」
文藝春秋より

これは皆さんの実生活に置き換えれば分かりやすいと思います。極端な例を挙げるなら同性愛者である人は社会的抑圧によって多くの場合、その事実を隠して生きていかざるを得ません。けれど本当はそんな自分を肯定し、思いっきり開放したい。

つまり「自我=ego」は外へ向かおうとしますが、それを社会的抑圧が外から押さえつけている。その結果、中間地点的な「自己=self」が形成され、それは内と外、両方から等しく圧力を受け、不思議な均衡を保っています。逆に言えば社会的抑圧が完全になくなれば、「自我=ego」は外へと向かう必要はないのですが、現代社会において、そのような状況はあり得ません。

自己(セルフ)は外界と自我(エゴ)に挟み込まれて、その両方からの力を常に等圧的に受けている。それが等圧であることによって、僕らはある意味では正気を保っている。しかしそれは決して心地よい状況ではない。なにしろ僕らは弁当箱の中の、サンドイッチの中身みたいにぎゅっと押しつぶされた格好で生きているわけですから。

でもとにかくこれが基本的なかたちです。作家が小説を書こうとするとき、僕らはこの構図をどのように小説的に解決していくか、相対化していくかという決定を多かれ少なかれ迫られるわけです。

村上春樹(1997)「若い読者のための短編小説案内」文藝春秋

人は「外界=現実世界」の圧力から身を守る「自己=self」という衣を纏いながら、同時に己の内から押し寄せる「自我=ego」の圧力にも耐えながら生きている。しかし今作『街とその不確かな壁』における少女「きみ」は外界を一切遮断することで、その結果不要となった「自己=selfという影」を捨て、ただ己の欲望のまま「自我=ego=壁の中の街」に引き籠もってしまう。

外界がなければ「自己=影」も必要ない。むしろ邪魔にさえなってしまう。そして「自我=ego」と「自己=self」を隔てる存在こそが今作で描かれた「不確かな壁」なのです

『村上春樹が提示した、自己と自我の理想形とは?』

それでは日本を代表する作家達はどのようなやり方で、自己と自我の問題を解決してきたのか? 村上さんはそれをどう読み解いたのか? 『若い読者のための短編小説案内』で提示された例で簡単に見ていきましょう。まずは芥川賞作家でもある吉行淳之介さんです。

村上春樹(1997)「若い読者のための短編小説案内」
文藝春秋より

彼は自分の位置を絶え間なく移動させ、ずらしていくことによって、外界との正面的な対立を、少なくとも小説的に回避しようとする。そしてまた外界との対決を回避することによって、自我との正面的な対決をもできるかぎり回避しようとする。

〜中略〜

つまり彼は移動のムーヴメントそのものの中に、安定性を見いだそうとしているのです。

〜中略〜

移動することによって、自分に加えられる力を減殺させようとするのです。誤解されることを承知の上で「逃げる」という言葉を使っていいかもしれません。もっともいくら逃げたところで結局は逃げ切れないことを、彼らは心の底で知っています。それはもともと自らの影法師のようなものなのですから。

村上春樹(1997)「若い読者のための短編小説案内」文藝春秋

お次も芥川賞作家である、小島信夫さんです。吉行淳之介さんとは対照的なやり方で彼は「自我=ego」を鎮めようとしていると村上さんは述べています。

村上春樹(1997)「若い読者のための短編小説案内」
文藝春秋より

主人公たちは自分の台詞のまわりに強固な外壁を築き上げようとします。そのことによって外部からの圧力を遮断し、外部からの力を排除することによって、内部(エゴ)からの力を鎮めようとします。

〜中略〜

しかし外部からの力はその壁をところどころで崩していきます。主人公は走り回ってなんとかその裂け目を補修しようとします。

村上春樹(1997)「若い読者のための短編小説案内」文藝春秋

その他の例も含めて、個人的に興味深かったのは村上さんが過去の作家たちが現代的な「自我=エゴ」の問題と立ち向かう姿を論じながらも、いずれもいつかは彼らがその戦いに敗れることを明示していると思われる点です。

誤解の無いようにつけ加えますが、村上さんは過去の作家たちを非難しているわけではなりません。むしろ彼ら自身の生い立ちや歩みにも気を配りつつ、己と同じ問題意識に立ち向かった先人たちを賞賛しているのです。

『村上春樹が提示した、自己と自我の理想形とは?』

それではここからは僕の類推になりますが、村上さんが今作『街とその不確かな壁』で提示した、彼なりの自己と自我の解決方法に関して述べていきたいと思います。その鍵となる言葉ですが、なんと先にも引用した今作のあとがきの一番最後を飾っているではないですか。

要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はその様に考えているのだが。

村上春樹(1997)「若い読者のための短編小説案内」文藝春秋

これを物語の進行と合わせて紐解くと以下の図になります。「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある」というのは、「自我と自己の間を軽やかな飛翔により行き交うこと」であると僕は思います。そしてその有り様を提示することこそが、村上さんにとっての「小説」であると述べている。

この思いは作中、子易さんの口からこう語られています。

「本体と影とは本来表裏一体のものです。」と子易さんは静かな声で言った。「本体と影とは、状況に応じて役割を入れ替えたりもします。そうすることによって人は苦境を乗り越え、生き延びていけるのです。何かをなぞることも、何かのふりをすることもときには大事なことなのかもしれません。気になさることはありません。なんといっても、今ここにいるあなたが、あなた自身なのですから」

村上春樹(2023)「街とその不確かな壁」新潮社

ちなみに子易さんとは村上さんの最も良き理解者であり、ある意味、彼の「メンター=指導者、助言者」でもあった心理学者、河合隼雄さん(2007年没)の姿を変えた存在であると僕は確信しています。

『これから、村上春樹はどこへ向かうのか?』

遂に村上さんは40年越しにずっと抱え込んでいたテーマの解決に成功しました。それに加えて、過去に置き去りにしてきた自身の亡霊とも向き合った。その視点で以下の文章を読むと感動的です。これを「自我と自己の対話」、あるいは「過去と現在の和解」に置き換えて読んでみてください。

「やはりぼくらは、もう二度と会えないかもしれません」

「そうなのかもしれない」と私は言った。

「あなたの分身の存在を信じてください」、イエロー・サブマリンの少年はそう言った。

「それがぼくの命綱になる」

「そうです。彼があなたを受けとめてくれます。そのことを信じてください。あなたの分身を信じることが、そのままあなた自身を信じることになります」

村上春樹(2023)「街とその不確かな壁」新潮社

最後は物語のラストを引用して終わりたいと思います。しかし以下の文章で、なぜ「広大な海に降りしきる雨の光景」が含まれているのでしょう? それは作中で主人公の「私」が、海とは変化することのない永続的なサイクルの象徴としているからであり、その永続性こそ、「壁の中の街(自我)」に引き籠もって、そこで永遠の安定を願っていた、過去の自分の象徴でもあるからです

しかし「私」は万感の思いを持って、「過去」と別れを告げ、「次なる自分」へと進んでいきます。本当にくたびれた今回の論評でしたが、最後にこの一文に辿り着いた時、僕自身メチャクチャ感動しました。今後の村上さんは以下にある「どこまでも柔らかな暗闇」の先へ。おそらくは人が最後に辿り着く「死への旅立ち」を描いていくのではないか、個人的にはそう思っています。

私は胸に大きく息を吸い込み、ひとつ間を置いた。その数秒の間に様々な情景が私の脳裏に次々に浮かんだ。私が大切にまもっていたすべての情景だ。その中には広大な海に降りしきる雨の光景も含まれていた。でも私はもう迷わなかった。迷いはない。

おそらく。私は目を閉じて体中の力をひとつに集め、一息でロウソクの炎を吹き消した。

暗闇が降りた。それはなにより深く、どこまでも柔らかな暗闇だった

村上春樹(2023)「街とその不確かな壁」新潮社
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