『一人称への回帰』
短編集『一人称単数』で村上さんが確信的なのは、まず「一人称」という言葉をタイトルに用いたことです。彼の小説をある程度追いかけている方ならご存じだと思いますが、初期の一人称小説の時代を経て、「総合小説=様々な人物が複合的に絡み合い、大きな物語を立ち上げていく」なるものを標榜するようになった結果、「海辺のカフカ」からしばらくの間、彼はずっと三人称を用いて小説を書き続けてきました。
ちなみに一人称小説とは「物語の主人公=話し手自身」で、主語が「僕」や「私」となり、常に主人公の目線から世界が語られます。言い換えるなら主人公が見た世界しか表現できない。
一方、三人称小説は物語の主人公=話し手とならず、場面場面で主体となるキャラクターが変わります。分かりやすく言うと映画がそうですね。カメラは常に主人公の外に存在し、主人公を外から撮ると同時に、自在に動き回り、様々なキャラクターも映し出していく。言い換えれば、一人称表現は基本的に映画ではできない。
なぜなら「カメラ=主人公の目」となってしまったら、主人公は鏡で己を見る以外、自分の姿形を認識できないのですから……。要は主人公であるにも関わらず、画面には一切映し出されない奇妙な存在となってしまう。
つまり一人称表現というのは、限りなく「小説的」であり、小説の固有性の最も大きな部分のひとつでもあります。しかし、そこには問題もある。なぜなら先に書いたように、基本的には主人公が見聞きした世界しか表現できないからです。
そうですね。僕の書こうとする物語が大きくなりすぎて、一人称だけではカバーしきれなくなってきた。一人称のパースペクティブというのは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とか『グレート・ギャツビー』とか、あれくらいの枚数の小説だとうまく働くんです。それ以上に長くなると、それだけでは手が回り切らなくなる。言うなれば、作ろうとする料理に対して、鍋の数が足りなくなってくる。
村上春樹(2010)「考える人(2010年夏号)」新潮社
しかし、『騎士団長殺し』を期に村上さんは再び一人称小説の世界に帰ってくる。個人的には嬉しい出来事でした。なぜなら先にも書いた通り、様々なメディアが発達した現在、世界を切り取るカメラを主人公の中に設定し、そこから世界と対峙していく「一人称小説」こそが小説最大の独自性であり、その発展にこそ、小説が生き残る大きな道筋があるだろうと思っていたからです。
ただし『騎士団長殺し』は内容的にはそれまでの三人称小説と大きくは変わりませんでした。一つは僕らの身の回りに存在する「悪」との対峙。 加えて現実世界から遊離し、異界へ入り込み、やがて帰ってくる「行きて帰りし物語」というこれまで通りのフォーマットです。個人的にはその「変わらないこと」が、一人称という世界の大きさに合わせて、グッと小さくなってしまった印象でした……。
『一人称単数とは何だったのか?』
そして次に発表されたのが短編集『一人称単数』です。この作品で最も特徴的なことはその全てが①「一人称視点」で語られる、②「過去の話」だということです。書き手の「僕」は記憶の積層から、昔起こった出来事をひとつひとつ掘り返していく。もともと村上さんの作品では「過去」が重要なファクターとなっていましたが、これはその進化形となっています。
過去と書きましたが、もっと突き詰めると過去に残した「後悔」や「罪」、あるいはそれにすらならない奇妙な「想い」についての物語です。人は時を巻き戻すことが出来ない以上、それらは取り返しのつかない出来事として、心の中に棘のように刺さったまま鈍い痛みを発し続けます。そしてその棘は年月が経つと共に、その痛みをぶり返させるのです。
あれから長い歳月が過ぎ去ってしまった。ずいぶん不思議なことだが(あるいはさして不思議なことではないのかもしれないけれど)、瞬く間に人は老いてしまう。僕らの身体は後戻りすることなく刻一刻、滅びへと向かっていく。目を閉じ、しばらくしてもう一度目を開けたとき、多くのものが既に消え去っていることがわかる。夜半の強い風に吹かれて、それらは — 決まった名前を持つものも持たないものも — 痕跡ひとつ残さずどこかに吹き飛ばされてしまったのだ。あとに残されているのはささやかな記憶だけだ。いや、記憶だってそれほどあてになるものではない。僕らの身にそのとき本当に何が起こったのか、そんなことが誰に明確に断言できよう?
村上春樹(2020)「石のまくらに(一人称単数)」新潮社
短編集の冒頭に配された『石のまくらに』のこの部分を読んだ時、村上さん、随分ストレートに言うなぁ、そう思いました。上記内の太字の箇所は実際の文中ではラインで分節されたり、文字の上に傍点を打つことで強調されており、実際、この短編集では全てが過去の「名前を持つ記憶、持たない曖昧な記憶」&「本当にその時何が起こっていたのか?」に対する探求を綴ったものとなっています。
『青春への決別と、その先にあるもの』
僕はこれを読んだ時、村上さんは明らかに自身の「老い」を意識し、それを積極的に作品に採り入れていく宣言をしたのだなと思いました。思えば彼の作品は「青春」と分かちがたく結びついたものとして、世界中からイメージされています。それは過去の論評でも述べたようにその作品の多くが「イノセンス」を扱ったものだったからでしょう。
その中で村上さんは作家としての成熟を重ね、一人称の世界から飛びだし、三人称を用いて「総合小説」なるものを目指すようになった。けれど上記引用にあるように「瞬く間に人は老いてしまう。僕らの身体は後戻りすることなく刻一刻、滅びへと向かっていく。目を閉じ、しばらくしてもう一度目を開けたとき、多くのものが既に消え去っていることがわかる」とある時、はっきり自身の「老い」を自覚したのだと思います。
そこで彼が作家として貪欲なのは安易な回春に走るのではなく、その「老い」を積極的に作品世界に採り入れようとしたことだと思います。僕はその1で村上さんは今作から新たなタームに入ったのではないかと述べましたが、そういうことです。いわば青春小説から玄冬(げんとう=老年期)小説への移行です。
世の多くの論評で『街とその不確かな壁』は面白くなかった、何より村上春樹は老いて駄目になってしまった等の言説が見受けられましたが、僕に言わせるととんでもない、それは作者自身が「狙って、周到に準備を重ねた結果」なのだと思います。
「老い」をハッキリと意識し、それを作品世界へ組み込むこと。すなわち新しい挑戦です。その来たるべき長編小説に向けてのトレーニングが短編集『一人称単数』でした。
ここで村上さんが明確に意識したものこそが「名前を持つ記憶、持たない曖昧な記憶」の掘り起こしと、その先にある「本当はその時、いったい何が起こっていたのか?」に対する探求。それが明確に伺えるのが『一人称単数』の最後を飾る以下の文章です。
階段を上りきって建物の外に出たとき、季節はもう春ではなかった。空の月も消えていた。そこはもう私の見知っているいつもの通りではなかった。街路樹にも見覚えがなかった。そしてすべての街路樹の幹にはぬめぬめとした太い蛇たちが、生きた装飾となってしっかり巻きつき、蠢いていた。彼らの鱗が擦れる音がかさかさと聞こえた。歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまで積もっており、そこを歩いて行く男女は誰一人顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた。空気は凍りつくように冷え込んでおり、私はスーツの上着の襟を立てた。
「恥を知りなさい」とその女は言った。
村上春樹(2020)「一人称単数(一人称単数)」新潮社
つまりこういう事です。以下に列記しますが、村上さん、ここでメチャクチャ自己開示しています。
- 季節はもう春ではなかった=青春は終わった
- そこはもう私の見知っている、いつもの通りではなかった=老いることで世界の見え方が変わる
- ぬめぬめとした太い蛇たち=いずれ訪れる死(寿命)
- 歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまで積もっており=死んだ同胞や友人、恋人たち
- 恥を知りなさい=自覚していない過去の罪や記憶
なぜこの短編集の名称が『一人称単数』なのか? それは極めてプライベート(個人的=単数)で曖昧な記憶へのアクセスは、極めてプライベート(個人的=単数)な一人称を用いた視点でしか達成出来ないからです。総合小説を書くために獲得した三人称をいったん放棄し、一人称視点で小説を書くことは村上さんにとって、今作を書くために必要だった「文体という乗り物の交換」なのでしょう。
ここでさらに重要な事はタイトルにもある「一人称単数」です。これは一人称視点かつ、その視点を有する存在が小説内に一人しかいないことを意味します。一方、それに対する対義語が「一人称複数」です。これは一人称ではあるものの、視点を有する存在が複数で、それらが入れ替わって、構成されていく作品を指します。
過去の村上作品の中で最も分かりやすいのが『ねじまき鳥クロニクル』でしょう。一人称で描かれてはいるものの、章ごとに「僕」や「加納クレタ」、「真宮中尉」に「クミコ」、「笠原メイ」と主体が入れ替わっていきます。
一人称へ戻ったことで、総合小説を諦めたのか? これは作家としての退化ではないのか? そう捉える人もいるかもしれませんが、この『街とその不確かな壁』を描くためには「一人称」かつ「単数」にこだわることが必要だった、僕はそう思います。
その3へ続く