『その街に行かなくてはならない。なにがあろうと』
上記の言葉は『街とその不確かな壁』特設サイトのキャッチコピーであり、単行本の帯にも大きく印刷されています。村上さんは小説を書いたら書きっぱなしではなく、装丁にもこだわりますし、当然宣伝計画に関してもある程度、関与しているでしょう。その様な状況下、今作を象徴するコピーとして選定されたのがこの言葉でした。
つまりこの小説は村上さんにとって「絶対に書かなければならない一冊だった」という事になると思います。じゃあ、その理由とは何か? それを僕なりの視点でひとつずつ紐解いていきたいと思います。
なお、今作の経緯を簡単に説明しておくと1980年、ある文芸誌に中編小説『街と、その不確かな壁』が発表されました。それが今作の元となる物語ではあるのですが、村上さん自身が「あれは書くべきじゃなかった。あれはむずかしい話なんです。あのころの僕の実力ではとても歯が立たなかった」と語っているとおり、その後に封印され、今まで出版されていません。
その後、作品は姿を変え、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』として発表されました。これにより『街と、その不確かな壁』は役割を終えた、そう思われていましたが、村上さんにとっては違った、彼はそのテーマとの再戦を望んでいました。
それから40年以上の時を経て「作家としての力量もついた今なら書ける」そう思い、一から書き直されたのが本作であり、旧作『街と、その不確かな壁』から濁点を抜いた『街とその不確かな壁』として、遂に世に出されました。
『村上春樹にとって短編小説 & 長編小説とは?』
僕はこれまでにも彼の作品を幾つか(納屋を焼くとめくらやなぎと、眠る女)論じてきましたが、どちらも短編でした。個人的に彼の長編は論じる意味がないと思っていたからです。これはもちろん作品の優劣ではありません。その理由は大きく分けて2つあります。
ひとつめの理由は短編小説は作家本人も認めているとおり、長編を書くための様々なことを試す「トレーニング場」であり、その時点で彼が何を考えているのか分かりやすいため、僕のような浅学な人間でも論じることが可能だからです。
僕は短編小説を、ひとつの実験の場として、あるいは可能性を試すための場として、使うことがあります。そこでいろんな新しいことや、ふと思いついたことを試してみて、それがうまく機能するか、発展性があるかどうかをたしかめてみるわけです。もし発展性があるとしたら、それは次の長編小説の出だしとして取り込まれたり、何らかのかたちで部分的に用いられたりすることになります。短編小説にはそういう役目がひとつあります。長編小説の始動モーターとしての役目を果たすわけです。
村上春樹(1997)「若い読者のための短編小説案内」文藝春秋
特に前作『一人称単数』はその様な意味合いがとても強かった。僕自身、次はこんな感じの作品かな?と思っていましたし、ある程度ですが当たっています。これは後程、詳しく述べます。
ふたつめの理由は長編小説は村上さんの自身の「無意識への旅」でもあるので、僕なんかにはとても解析することが出来ませんし、それは多分に心理学の領域です。ちなみにこの「無意識への旅」をとても上手にビジュアル化しているのが、漫画家、羽海野チカさんが将棋の棋士を主人公に据えた人気作『3月のライオン』の以下のシーンだと思います。
深く読む事はまっくらな水底に潜って行くのに似ている。「答え」はまっ暗な水底にしかなく、進めば進む程、次の「答え」は更に深い所でしか見つからなくなる。昔は潜れば潜る程、「答え」が手に入って、恐怖より「欲しさ」が勝っていた。
羽海野チカ(2012)「3月のライオン」第7巻 白泉社
将棋というのはどれだけ訓練や対策を練っても一度、対局に入ってしまえば、相手によって出方が変わり、先の見通しなど立ちません。棋士は与えられた状況下、一瞬一瞬に己の持てる全てを振り絞り、勝利に向かって文字通り「手探りで」進むしかない。
まさに真っ暗闇の水底奥深くへ潜っていく感覚だと思います。何がつかみ取れるのかなんて分からない。いや、何も無い可能性だって高い。その恐怖を胸に、先の見えない水底へ一歩一歩、下へ下へと降りていく。
もし村上さんが上記の羽海野さんの言葉を読めば、我が意を得たりと思うのではないでしょうか。実際、彼自身も川上未映子さんによるインタビュー集で以下の言葉を述べています。
村上さんは、今回のこの本の中でも、「物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇に下降していくことです」と書いておられます。それと同時に、興味深いと思うのは、村上さんはあるインタビューで「僕は、地上における自我というものにまったく興味がない」っておっしゃっているんですね。
〜中略〜
ないと思う。それよりは、自分の中の固有の物語を探し出して、表に引っ張り出してきて、そこから起き上がってくるものを観察する方にずっと興味があるんです。だから日本の私小説的なものを読んでると、全然意味が分からない。
川上未映子、村上春樹(2017)「みみずくは黄昏に飛びたつ」新潮社
「自我」と言うのは「私とはこういう人間です」という、自己が認識するアイデンティティに基づく、「こうありたいと願う自分像」を指します。そして村上さんは小説を書く際にそんなものは必要ないと言う。ただ「まっ暗な水底にある何か」を無心に手探りで探しながら、じっくりと息を潜めて潜っていく。
そんな時「自分自身」など考えるだけ無意味、ただ全神経を研ぎ澄まし、己の心の闇の中にある、見えない「何か」の在処を探し出す事のみに集中する。整合性だってどうでもいい。とにかく潜り続ける事が大切なのだから……。
第一稿を書くときには、多少荒っぽくても、とにかくどんどん前に進んでいくことを考えます。時間の流れにうまく乗っちゃって、前に前にと進んでいく。眼の前に出てきたものを、片っ端から捕まえて書いていく。もちろんそれだけだと話があちこちで矛盾するけど、そんなことは気にしないで、あとで調整すればいいんです。大事なのは自発性。自発性だけは技術では補えないものだから。
川上未映子、村上春樹(2017)「みみずくは黄昏に飛びたつ」新潮社
だからこそ村上さんは「長編小説を書き終えた時は、頭に血が上り、脳味噌が過熱して正気を失っている」とまで述べています。つまり極めて個人的かつ、無意識的、加えてとても肉体的な行為をともなう「旅」だということです。
多かれ少なかれ「作品」とはこういうものだと思いますが、村上さんの場合はレベルが違う。僕はこと長編小説に関しては、彼のことを小説家と呼ぶより「現代のイタコ(死者の魂を憑依させ、彼らの言葉を聞く人たちのこと)」と呼んだ方が適切な気がしているぐらいです。
実はこの「無意識への旅」は僕たちみんなも日常的に行っています。睡眠時の「夢」を見るという行為です。つまり村上さんは僕らが睡眠時にしか行えない行為を、目を開けながら行える特殊能力者でもあるのです。だからこそ彼の有名な言葉(本のタイトルにもなっている)に以下の一節があるのでしょう。
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』
そして誰もが行っている「無意識への旅」には読み手視点からもワクワクする素晴らしいものもあれば、つまらない旅だってある、けれどそこに優劣なんてつけようがない。なぜなら各個人にとって「夢」を見るとは、自身を正常に保つための極めて重要な行為だからです。
「村上作品の長編」はいつだって現実世界から旅立ち、異界を彷徨い、そして帰ってくるという「夢を見る」と同じ構造を持ちます。彼の作品にはこの「構造」しかないという人がいるぐらいです。僕がこれまで村上さんの長編を論じる気が起きなかったのは、つまり他人の夢に対して、あーだこーだ言っても意味がない。ただし楽しい夢なら、こちらもお裾分けを頂戴できれば良い、そういうスタンスだったからです。
じゃあ、僕がなぜ今回これまでやらなかった長編小説をあえて論じようと思ったのか? それは今作が先に述べた村上さんの言う「自我なんてどうでもいい」というスタンスが少し崩れ、綻びが出来ていると感じたからです。つまり本作には明確な彼の「自我」が感じられた。それは何かと言うと冒頭にある
『その街に行かなくてはならない。なにがあろうと』
なんです。この「自我=私が絶対に書きたいこと」を充たす為に村上さんは『一人称単数』という、8作からなる短編集を出し、その中で今作のための明確な「トレーニング」を繰り返し行っています。加えて、これまでの長編作品とは全く異なる2つの点が見受けられるんです。
ひとつめは戦うべき明確な「悪の消失」、ふたつめはそれに伴う「冒険の消失」です。つけ加えるならSEXの要素もなくなっていますね。
誤解を恐れずに言うのなら、これらが無くなったことによって、物語は平坦で「つまらなく」なっています。今作に関して、結構批判的な言説が多く見られた最大の理由はそれではないでしょうか。
しかし誤解を恐れず言うのなら、彼は「あえて」この物語を冗長で、平坦で、起伏の少ない物語に仕立てたと思っています。
つまり今作から村上さんは新たなターム(段階)へと入ったという事だと思います。そしてそこには彼自身が感じた「老い」がとても深く関係しているのではないか?(補足ですが僕はこの件において「老い」をマイナスだとは全く捉えていません)これらを順に述べていきましょう。
その2へ続く