『老女=母親の影』
先に取り挙げた「犬殺し」に次いで、女性にまつわる表現の中、もうひとつ不可解なものとして、サムの部屋のバルコニーの対面に住んでいるトップレスの老女が挙げられます。彼女は何匹ものオウムを飼いながら暮らしており、サムは彼女の裸を望遠鏡で覗くのが日課になっています。
冒頭のシーンではそこへ母親から電話がかかってくる。会話の内容から鑑みて、いわゆるマザコンではないもののサムはまだ母離れを、母の方も子離れが出来ていないことを伺わせます。そこで母は1927年の古い映画、ジャネット・ゲイナー主演の「第七天国」を観ろと勧めてきます。息子がケーブルテレビに加入していないのを知るとビデオに取って送るからとこれまたしつこい。実はこれがエンディングへの伏線となっています。
ここでいきなり個人的結論を述べますが老女とは母親のメタファーであり、籠の中で飼われ続けるオウムはサムを象徴しているのだと思います。デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の作品の中で共通する事項として「父」の不在と、影のように不穏にまとわりつく「母」の存在があります。これは前作の「イット・フォローズ」を観てもらえればよく分かります。
今作内でも母は電話で話しかけてくる「声」だけの存在でしかありません。しかし冒頭とエンディング前にそれぞれ現れる以上、当然ながら重要な存在な訳です。そしてサムは最後で唐突に己の部屋を捨てて逃げ出し、老女=母と交わるのです。
その引き金となるのが母から届いた「第七天国」のビデオです。その中で彼女はジャネット・ゲイナーを通して「下を見ないで、いつも上を見るのよ」と息子に優しく語りかけ、画面内で男=サムを抱きしめます。そしてちょうどその時オウムが鳴き声を上げ、それに誘われるかのようにサムは老女の部屋へと向かうのです。
ちなみに上に掲載した老女がオウムを抱きしめる冒頭のシーンと、下にあるエンディング前のジャネット・ゲイナーが男性を抱きしめるシーンの2枚を比較してください。監督が意図して同じポーズと構図で撮っていることがよく分かります。
『父の不在と母性の束縛』
これは前に書いた機動戦士ガンダムの評論『機動戦士ガンダムは母殺しの物語である』でも述べたのですが、僕ら70年代生まれの男たち(団塊ジュニア世代)には「立ち向かうべき父の不在」とその副作用として、母性に絡め取られ上手く母離れ=乳離れができていないという問題が顕在化しており、これは世界共通の事項だと思っています。
この映画は監督が己の人生をぶちまけたゲロのようなものだと述べましたが、そのような世代全体を覆う呪いのようなものに対しても、彼が自覚的だったと言うことではないでしょうか。サムが老女とSEXの余韻を愉しんでいる時、カーテンの向こうに幾多の「籠の中に囚われた鳥=男たち」がシルエットとして浮かび上がっているのが象徴的です。
「イット・フォローズ」でも感じたのですが、この人は潜在的に「母」や「女性」に対して恐れのような感情を抱いていると思います。よって今後もそのような側面が垣間見れる映画を撮るのではないでしょうか。
いずれにせよその1でも述べたように、デヴィッド・ロバート・ミッチェルの作品ではSEXが大きな鍵となっており、『SEXをする=何かを喪失して、新たな局面に漕ぎ出していく』ことのメタファーとなっています。サムは「母」を抱くことで己の全てを失い、無一文となって新たな世界へ漕ぎ出していくのです。
『失われた世代』
僕らの世代がその前までと大きく異なるのは「昨日より今日、今日より明日が素晴らしい」という神話が崩壊した後の世界を生きてきたことです。人口数だけは爆発的に多かったため、弊害として苛めが横行し、バブル後の就職氷河期は苛烈を極めました。人はそれをロスジェネ世代と呼びます。
これはアメリカでも同じです。日本におけるロスジェネ世代はアメリカではジェネレーションXと呼ばれ、やはり就職難に遭遇し、現在では鬱や自殺、薬物やアルコールの乱用が増えていることが指摘されています。
そもそもなぜ、デヴィッド・ロバート・ミッチェルは処女作からずっと「喪失」を描き続けるのか? それはやはり彼が「失い続けてきた世代」の人間なんだからだと思います。彼=僕らがそれより後の世代と違うのは始まりはハッピーだったことです。けれどそこから転げ落ちるように右肩下がりの人生を歩み続けてきた。
冒険が出来るのはゲームの中だけでした。映画終盤でサムが机の上に大切にしてきた物たちを並べるシーンがあります。非常に象徴的なカットです。そこにあるのはチープで、安っぽいガラクタばかり。けれどそれを観た僕は泣きそうになっちゃいました。「このガラクタが俺たちを創った!このガラクタこそが俺たちなんだ!」そんな監督の叫びがこだましているように思えたからです。
『それでも生きていくしかない』
「僕らはどこへ行けばいいのか?」そして、「僕らはやがてどこへ辿り着くのか?」僕はその1でデヴィッド・ロバート・ミッチェルはこの問いかけをずっと己の中に抱え続けている、哲学者のような作家だと述べました。さらに彼自身の現状の答えとして、そんなものに明確な解答なんてありやしない。人はとにかく歩き続けるしかないんだと「イット・フォローズ」のエンディングで語っているとも。
サムは最後に全てを失います。つまり僕ら世代の行き着くところまで作品内で監督は行き着いた。凄いと思います。監督は僕ら世代の男たちの行く末と思いを思いっきりぶちまけてくれた。もう一度言いますが未成熟で、チープで、情けなさい作品です。だからこそ激しく胸を打つんです。
最後の最後、エンドロールに入る前の一瞬。ちょっと分かり難いのですがそれまで夢遊病者の様な表情だったサムの顔が引き締まり、真っ直ぐこちらを見てきます。あの時、サムは画面を越えてスクリーンの向こうにいる僕らを見つめているのです。
これは映画技法的に「第四の壁を壊す」と言われ、映画内の人物が、映画を見ている僕ら観客に向かって話しかけたり、セリフを発したりすることです。そしてここには監督から僕らへの無言のメッセージがあります。それが何なのか?はエンドロールでかかるR.E.M.の名バラード『STRANGE CURRENCIES』が象徴している気がします。
そして今、愛と共に奇妙な流れがやってくる。
分かってくれ。
チャンスが欲しいんだ。二度目の、三度目の、そして四度目の。
何でもいいんだ、合図をおくれ。
己を欺き、己を捕らえ、そして現実へと導いていくために。
君は僕のものになるだろう。君は僕のものになるだろう。いつまでもいつまでもずっと……。