「パンズ・ラビリンス」から「シェイプ・オブ・ウォーター」へ ─ その1

『皆が待ち望んでいた「作家」としてのデル・トロ』

今回、取り上げるのは2018年、第90回アカデミー賞において作品賞を始めとする4部門を獲得した、ギレルモ・デル・トロの「シェイプ・オブ・ウォーター」です。アカデミーを獲ったことからも、当然ながら世間一般では傑作と言われています。

でも僕自身、初見時は観る前に期待していた程にはグッときませんでした……。見終わった後、暗い映画館の中、なぜなんだろうと考えたものです。あくまで個人的な意見ですが、実は同じように感じた方は結構多かったのではなかろうか、そう推測しています。

デル・トロのファンの方ならご存じの通り、彼の映画には大きく分けて2つのラインがあります。ひとつはハリウッドのヒットメイカーとしての作品群。「ブレイド2」や「ヘルボーイ」、「パシフィック・リム」などですね。彼はこれらを世に出すことによって、ある程度まで自由に作品を撮ることが許される地位に加え、経済的な余裕も得ることができました。これは映画の世界で生き残っていくには大切なことです。

まして彼のようにSFや怪獣、特撮物など、予算のかかる映画を撮りたいのなら、決して避けて通れない道です。だから当然の事として、これらの作品を否定するつもりはありませんし、存分に愉しんでもいます。

『もう一度、パンズ・ラビリンスを!』

一方それらに対し、異なる志向性を持つ作品が「デビルズ・バックボーン」や「パンズ・ラビリンス」です。これらはハリウッドでなく、ヨーロッパ資本で撮られたスペイン語映画であり、予算は少ないながらもその代償として、あくまで己の「撮りたいもの」にこだわり抜いた、デル・トロの作家性が目一杯詰まった作品です。

中でも「パンズ・ラビリンス」は大傑作とされ、それに相応しい評価を勝ち得ています。僕も含めて、少なくないこれらの作品のファンは、いつか彼がもう一度この方向性で撮ってくれることを心待ちにしていました。

そんな僕らが驚喜したのがある日、映画館で流れた「シェイプ・オブ・ウォーター」の予告編です。なぜなら、そのキャッチコピーには「パンズ・ラビリンスのギレルモ・デル・トロが贈る」の一文が大きくフューチャーされていたからです。

「ヘルボーイ」でも「パシフィック・リム」のデル・トロでもなく、「パンズ・ラビリンス」のデル・トロ。これは配給する側も僕らのようなファンの存在を把握していたからこそ、このような宣伝文句となったのでしょう。

Pan’s Labyrinth (2006) Estudios Picasso/Tequila Gang/Esperanto Filmoj/Sententia Entertainment
これを書くに当たり見直しましたが、やっぱり大傑作!

けれども、ここには決して小さくない問題があります。なぜなら「傑作」を創造し、それに見合った評価を受けることは作家にとって大いなる勲章であると同時に「呪い」でもあるからです。やはりその作品に魅せられ、ファンになった人たちは、再び同じような作品を撮ることを作家に求めます。

実際、「パンズ・ラビリンス」は、これを生涯ベスト10に挙げる人も多く、中にはベスト1だと言う人すらいます。僕自身、今ひとつ初見時の「シェイプ・オブ・ウォーター」にグッとこなかったのは、この「期待していたもの」が「呪い」となっていたからだと思いますし、同じような人は多かったのではないでしょうか?

『投影される作者自身の姿』

では「パンズ・ラビリンス」がなぜ、かくも多くの人たちをノックアウトしたのか? 例を挙げればキリがありません。例えば主演のイバナ・バケロ。「ローマの休日」におけるヘップバーンのように、彼女がいなければここまで印象に残る作品になったかどうか。

もちろん魅力的なビジュアルの数々に加え、ファンタジー世界と対立する、虐殺や言論弾圧が日常茶飯事だったフランコ政権下のスペインが舞台という複層性。また「ローマの休日」のように「男」ではなく、「女性」が自己実現を果たすストーリーであったのも大きかったと思います。

Roman Holiday (1953) Paramount Pictures
「パンズ・ラビリンス」同様、女性が大人になるためのイニシエーション(通過儀礼)を扱ったものでは最高傑作のひとつでしょう。これが戦後10年経たないで出ているのが本当に凄い!

でも個人的にこの映画で最も心惹かれたのは、デル・トロがこれを撮った時点での、己自身の人生全てを100%詰め込んだ映画であったということです。シルベスター・スタローンにとっての「ロッキー」、オリバー・ストーンにとっての「プラトーン」、北野武にとっての「ソナチネ」、そのような作品なのだと思います。

作家は必ず作品内に意識的に、あるいは無意識的に「自分自身」を投影し、それらは具体的なキャラクターとなって姿を現します。上に挙げた3作品ではいずれも作者(監督)がイコール主人公となって、作品世界を駆け巡りました。

スタローンは「負け犬のまま人生を終わりたくない」、ストーンは「あのベトナムの泥沼で見たことをアメリカ人に突きつけてやる」、北野武は「もう生きるのに疲れた、死んでしまいたい」、それぞれの思いを背負ったキャラクターたちは作品の中心に居座り、作品を動かす熱源として観客の目を惹きつけ続けます。

『オフェリアとパン、2人のデル・トロ』

「パンズ・ラビリンス」でのデル・トロもまた、作品の中を「駆け巡り」ました。ファンタジーを信じて生きる、無垢な主人公「オフェリア」はまさにデル・トロの化身であり、彼が理想として心に描き続けた「イノセンス」の象徴でもあります。

一方それに対し、ファンタジーのダークサイドの恐ろしさを体現する存在としての「パン」やペイルマン。これもまたデル・トロが己の内に抱え込んでいるもうひとつの自分です。

彼自身の飽くなきファンタジーへの傾倒と、それに対する「恐れ」、この相反するものがひとつの作品として結実しているのが本作だと思いますし、だからこそ傑作になったのだと思います。この「ねじれ」は正直なところ「シェイプ・オブ・ウォーター」には見られないものです

Pan’s Labyrinth (2006) Picturehouse

また、オフェリアを追い回す義理の父でもあるビダル大尉も重要です。ちなみに「シェイプ・オブ・ウォーター」でも、彼そっくりのストリックランド(半魚人を拷問する護衛官)が出てきますよね。ビダルはナイフで裂かれた口を自分で縫い付け、ストリックランドは噛み切られた指を一度は手術でくっつけるものの腐ってしまい、やがて自分でちぎり捨てます。

このように主人公を粘着的に追い回す、傷を負った「マッチョな男=父的存在」というのはデル・トロにとって、何かトラウマのような記憶があるのかもしれません。彼の作品では多くの場合、古い価値観を持った「マッチョな男たち」こそが、実は本当の意味でのモンスターであると描かれています。

『熱量をもたらすキャラクター=作者である』

ここからはあくまで個人的な感想ですが、作者が己自身を投影したキャラクターが大きくクローズアップされてない作品は、どうしたって「熱量」が低くなります。やはり作品を動かす内燃機関として、作り手の「想い」は重要であり、作者自身を投影したキャラクターがストーリーのメインライン上にいないと話がだらけてしまうのです。

なぜなら、やはり人は己自身に無意識に肩入れするものであり、それが脇役だったら、そちらへ熱が逃げてしまう。だからこそ「ロッキー」も「プラトーン」も「ソナチネ」も、トーンの違いこそあるものの、どの作品も「熱い」のです。

ただし作者の投影は必ずしも主人公である必要はありません。一例として漫画家、荒木飛呂彦さんは「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズを描き続ける中、おそらくはその途中から、いわゆる少年漫画誌で求められる清廉潔白な主人公像に違和感を抱き、それを描き続けることを強制されるのに苦しみました。

しかし荒木さんは己自身を主人公=ジョジョではなく、4部では敵である殺人者「吉良吉影」に、5部ではギャングの幹部「ブチャラティー」という「悪」を身にまとったキャラクターに委ねることでこの問題を回避します。彼らは主人公ではないものの、ストーリーのメインラインにいるので、物語は熱量を失いません。

『後退するデル・トロの影』

では「パンズ・ラビリンス」以降のデル・トロはどうだったのか? 例えば2015年の「クリムゾン・ピーク」もまたファンタジー作品として、充分なクオリティを有しています。しかし初めて観た時は先に述べたような、デル・トロの姿が投影されたキャラが作品内のどこにも存在していないと思いましたし、その結果としての熱量不足も感じました。

主人公ミア・ワシコウスカに加え、トム・ヒドルストン、ジェシカ・チャステインらはあまりに美しく、凜としており、どうしてもダークで、有機的で、偏執的なデル・トロの「血と肉」を感じることができなかったのです。

しかし、2回目を観た時に気づきました。ちゃんと彼は作品内にダークで、有機的で、偏執的な己自身をしっかり紛れ込ませていました。それもキャラクターたちより、もっと大きな存在として……。

Crimson Peak (2015) Universal Pictures

「クリムゾン・ピーク」という作品の本当の主人公は誰か? それは間違いなく、キャラクター、つまり人間ではなく、クリムゾン・ピークと名付けられた摩訶不思議な洋館そのものです。デル・トロがこの作品を撮る上で最も心血を注いだのが、この館の細部に至るまでの造形でした。その異常なまでのこだわり具合は『クリムゾン・ピーク The Art of Darkness』というメイキングブックをご覧いただければ分かります。

もうどうしようもないぐらいに、あり得ないレベルで偏執的で、(もちろん褒め言葉として)狂っています。つまり、この作品においてはキャラクターたち全員を包み込む「世界」そのものがデル・トロだったということです。

これは凄いことであると同時に、やはり作品としての「熱」は減退してしまう。もちろん「ストーリー」という一側面だけで映画を判断するという、狭量的な価値観であることは認めます。

しかし、このストーリーのメインラインから「自分」が消えてしまうということが、別の形で起こったのが「シェイプ・オブ・ウォーター」でした。だからこそ、最初に見た時にはグッとこなかった……。でも、そうなったのには確たる理由が存在していると思っています。

その2へ続く