「納屋を焼く」で、村上春樹が焼いたものとは何か?─ その3【完】

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『この作品における「本当の謎」とは?』

かの名探偵シャーロック・ホームズは推理するに当たって、残された証拠から事件現場で起こった出来事を想像し、推理どおりであるならば、そこに本当は存在しなければならない物が存在しない場合、それこそが事件を解く「鍵」だとしています。ちょっとまわりくどい言い方になりましたが、この作品において一番の「謎」とは何でしょう?

多くの読者は消えてしまった「彼女」の行方こそ、最大の謎であり、それを「彼」が焼いたという「納屋」と関連づけ、おそらくは「彼」に殺されたのだろうと推理します。これは当然の帰結であり、一面的には正しいと思います。しかし本作の一番の謎はそれではない。

シャーロック・ホームズ氏に倣うのなら、ここで最もおかしいのは「僕」です。あれほど大切な彼女が消えてしまったことに全く気づかず、そのことを彼女を殺した犯人と推測される「彼」の方から指摘されるぐらいなのですから

「ところであれから彼女にお会いになりました?」と彼が尋ねた。

「いや、会ってないな。あなたは?」

「僕も会ってないんです。連絡がとれないんです。アパートの部屋にもいないし、電話も通じないし、パントマイムのクラスにもずっと出てないんです」

「どこかにふらっとでかけちゃったんじゃないかな。これまでにも何度かそういうことはあったからね」

彼はポケットに両手をつっこんで立ったまま、テーブルの上をじっと眺めた。「一文なしで、一ヶ月半もですか? それも十二月ですよ」

わからない、と僕は言った。

村上春樹 著(1983)「納屋を焼く」新潮社

ここだけ抜き出すと寒々しくすらあります。一ヶ月半もの間、大切な彼女がいなくなったのに気づかず、そればかりかこの会話の前も、彼と別れたその後も、焼かれたという「納屋」については熱心に考え続けるくせに、彼女に対しては一度、連絡を取ろうと試みただけで、すぐに諦めてしまいます。

どう考えても、これこそが本来ならこうなるであろうはずのない、よってこの作品の一番の「謎」であり、同時に本作を読み解くきっかけとなる「鍵」だと思います。では主人公の「僕」は、なぜこんなにも鈍感で、自分勝手で、他人のことを思いやろうとしないのか?

『挫折から忘却へ』

その理由は、その2の最後で述べた、村上さんが一個人として、ずっと抱え続けた「ある挫折の記憶」が大きく影響しているのだと思います。それは思想家、内田樹さんが著書『村上春樹にご用心』などで指摘されているように、60年代に起こった学生運動です。ここは僕の言葉で語るより、村上さん自身の言葉の方がより適切でしょう。

内田樹 (2014)「もういちど村上春樹にご用心」
文春文庫
「村上春樹にご用心」に加筆修正された最新版。数ある村上本の中ではダントツではないでしょうか。

僕はもともとグループに入って、みんなと一緒に何かをするのが不得意で、そのせいでセクトには加わりませんでしたが、基本的には学生運動を支持していたし、個人的な範囲でできる限りの行動はとりました。でも反体制セクト間の対立が深まり、いわゆる「内ゲバ」で人の命があっさりと奪われるようになってからは(僕らがいつも使っていた文学部の教室でも、ノンポリの学生が一人殺害されました)、多くの学生と同じように、その運動のあり方に幻滅を感じるようになりました。そこには何か間違ったもの、正しくないものが含まれている。健全な想像力が失われてしまっている。そういう気がしました。そして結局のところ、その激しい嵐が吹き去ったあと、僕らの心に残されたのは、後味の悪い失望感だけでした。

村上春樹 著(2015)「職業としての小説家」新潮社

世界を自分たちの手で変えられるのではないかという、壮大な「夢」と、それとはあまりに異なる後味の悪い結末。その果てに「社会化」された彼らはあっさりとジーパンを脱ぎ、スーツを着て、ネクタイを締め、自分たちのやった事なんて、まるで存在しなかったかのようにしれっと消費社会を謳歌します

それだけでなく、日本社会に大きな傷跡を残したバブル期には中心世代として踊り狂いました。この作品が書かれたのはまさにバブル前期です。学生運動の反動から、だれもが政治的に無関心で、シラケきって生きていました。

学生運動に対する想いも含めて、これまで語らなかった様々なことがストレートに書かれています。

それに対して村上さんは、俺たちはあれだけの事をやっておいて、それを忘れるのか? 自分たちが否定した者たちにドップリ呑み込まれ、それでいいのか? じゃあ、あの時、死んだ者たちは一体何だったんだ? ずっとその思いを抱き続けました。その堕落しきった同世代の彼らの姿はまさに「イノセンス」を失い、社会化した主人公である「僕」そのものです

あまりに鈍感で、自分が犯した罪すら自覚せず、ただぼんやりと優雅に毎日を過ごす。そんな「僕」が一時、取り戻した「イノセンス」を「彼」は当然の事として奪い返しにきます。それが大麻煙草を吸った後、納屋を焼く話が出るくだりです。

「それじゃ手袋は買えないねぇ」と僕は言う。ちょっとした悪役なのだ。

「でもお母さんがすごく寒がってるんです。あかぎれもできてるんです」と子狐は言う。

「いや、駄目だね。お金をためて出なおしておいで。そうすれば

「時々納屋を焼くんです」

と彼が言った。

「失礼?」と僕は言った。ちょっとぼんやりしていたもので、聞きまちがえたような気がしたのだ。

「時々納屋を焼くんです」と彼は繰り返した。

僕は彼の方を見た。彼は指の爪先でライターの模様をなぞっていた。それから大麻の煙を思いきり肺の奥に吸い込んで十秒ばかりキープして、そしてゆっくりと吐きだした。まるでエクトプラズムみたいに、煙が彼の口から空中へと漂った。

村上春樹 著(1983)「納屋を焼く」新潮社

何でもない会話と思うかも知れません。でも、もう一度、よく読んでください。これってまさに学生運動の志とその衰退の過程を示唆した完全なるメタファーですよ。純粋なる「イノセンス」から湧き起こった、確かな志に基づいた学生運動やカウンターカルチャーが「資本主義=金」に呑み込まれ消えていく……。僕はこれを読んで心底震えました。村上春樹ってこんなに凄い作家なのかって。

とあれ「僕」の過去の扉が開かれ、そこから僅かに残ったイノセンスのかけらが溢れ出した瞬間、「彼」はそれを捕らえ、焼き尽くします。納屋を焼く話をすることによって……。「僕」は気づきもしません。

目がさめると部屋はまっ暗だった。

七時。

青っぽい闇と大麻煙草のつんとする匂いが、部屋を覆っていた。妙に不均一な暗さだった。僕はソファーに寝転んだまま、学芸会の芝居のつづきを思いだそうとしてみたが、もううまく思い出せなかった。子狐は手袋を手に入れることができたんだっけ?

村上春樹 著(1983)「納屋を焼く」新潮社

『イノセンスの燃え殻』

知らぬ間に最後に微かに残っていた「イノセンス」を焼かれた主人公が「彼女」のことを思い返さないのは当然です。なぜなら、ある物事の記憶を失った人間は、そもそもそんな物事が存在したことすら、もう分からないからです。

でも、過去に己の中に「何か」が存在した。その「何か」までは分からなくても、温もりだけは残ります。それが主人公にとっての「納屋」なのでしょう。

だからこそ「彼女」のことは思い返さなくても、どこかで焼かれた納屋はないか、ずっと探し求めるのです。それが主人公にとって、あるいは学生運動を挫折し、堕ちてしまった彼らのイノセンスを求め続ける、あまりに変わり果てた代償行為なのでしょう

そう考えるとこれは非常に恐ろしい話であると同時に、悲劇であり、かつ喜劇でもあります。そして何より切ない話です。なぜなら彼らはもう、かつて己の中に存在したイノセンスに「気づく」ことすらできない。そのくせ、盲目的かつ半永久的にその燃え殻を求め続けるのですから……。その切なさが最も漂うラスト部分を引用して、この話は終わりとしましょう。

僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。うちのまわりの納屋はいまだにひとつも焼け落ちてはいない。どこかで納屋が焼けたという話もきかない。また十二月が来て、冬の鳥が頭上をよぎっていく。そして僕は歳をとりつづけていく。

夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。

村上春樹 著(1983)「納屋を焼く」新潮社
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