『英雄とは、何者か?』
いつだって「神話」には「英雄」がつきものです。なぜなら「神話」とは「英雄」が冒険する話だからです。英雄と聞いて、皆が思い描くイメージは己の身体を張って敵と戦い、苦しむ人々を救い、その結果、王として祭り上げられる場合もあるなど華々しいイメージがあります。英雄物語を分かりやすくゲーム化した初期のドラゴンクエストなどがそうでした。
そういった意味では本作の英雄とはフュリオサであり、それをサポートしたマックスなのでしょう。しかし、実際のところ、「英雄」とはいったいどのような存在なのか? 神話学の第一人者であったジョーゼフ・キャンベルはビル・モイヤーズとの対談集、「神話の力」の中で、
「英雄とは、自分自身よりも大きな何物かに自分の命を捧げた人間です」
ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ 著/飛田茂雄 訳(2010)「神話の力」早川書房
と述べています。英雄とは己のために戦うのではありません。己を越えた別の存在に命を捧げ、戦った人間のことを英雄と呼ぶのです。その視点で見るとこの映画では主人公ら全員、すなわちフュリオサとマックスに加え、5人の女性、さらにニュークスやミス・ギディまでみんなが「英雄」であることは間違いありません。彼、彼女らの存在全てに意味があり、彼、彼女らの全てにそれぞれの役割があります。
しかし、その中でも今回、取り上げたいのは志半ばで亡くなったスプレンディドです。彼女はイモータンの子を宿した苦しみから、カミソリによる自傷行為が止められなくなるなど精神的に病んでしまいますが、迷った挙げ句、その子を産み、彼の手の届かない「緑の地」で育てていこうと決意しました。しかし投稿その5でも書いたように、元の世界と異世界とを繋ぐ「門」を通り抜ける際に犠牲となってしまいます。
彼女はフュリオサの盾となり、マックスを救い、その結果、主人公らはイモータンの追撃を振り切ることができました。まさにスプレンディドは「自分以外の存在」の「未来」のために己の命を捧げた英雄なのです。先に引用した「神話の力」の中でキャンベルはモイヤーズの質問に対し、こう述べています。
モイヤーズ「英雄は男とは限らない?」
キャンベル「もちろんです。生活の条件のせいで、一般的に男の役割のほうが目につきやすいだけです。男は外へ、世の中へ出ていきますが、女は家庭にいる。しかし、例えばアステカ族にはいくつもの天国があって、死に方によってその人の魂が行く天国が違うんですけれども、戦いで殺された戦士の行く天国と、お産で死んだ母親の行く天国とは同じなんです。子供を産むということは、間違いなく英雄的な行為です。他者の生命に自己を捧げるんですから。」
ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ 著/飛田茂雄 訳(2010)「神話の力」早川書房
『全ての女性は英雄である』
改めて語ることではありませんが、女性は初潮後それから何十年もの間、月経に苦しみ抜き、やがて、胎内に子を宿すと数週間に及ぶつわりを経た後、激しい痛みを伴う出産を経験します。ここで命を落とす場合だってあります。
つまりキャンベルが語っているように、全ての「母」とはまさしく己の全身全霊をもって、他者に「命」を捧げる「英雄」であるということです。そして間違いなく、本作の作者ジョージ・ミラーもそれを理解していた数少ない男性の一人でした。
彼はこの映画の中で女性たちが命を繋いで成した、壮大な「子産み」を描いています。それはイモータンに「Breeders(繁殖される家畜)」として強制される「子産み女」としてではありません。では、彼女らはどうやってこの荒廃した世紀末の荒野に「子供」を産み落としたのか? そして産み落とされた「子供」とは誰だったのか?
『つむがれていく、子産みのリレー』
まず、5人の女性の中で最も早く「自発的」に行動を起こしたのがスプレンディドでした。彼女はイモータンが、その銃口をフュリオサに向けた時、進んで盾となります。彼女は自分の命と引き替えにしてでも守るべきものがあります。それは陳腐な言葉ですが「尊厳」です。
これはプライドと呼ばれるちっぽけなものではありません。己が生きていく上で、ここだけは譲ることができない、それをしてしまえば生きる意味を喪失し、屍のような存在になってしまうという、人間として保つべきギリギリの矜持です。法や道徳が吹き飛んだ世紀末だからこそ、人はそれぞれ、ここだけは譲れないというギリギリの線を引いて生きている、僕はそう思います。
しかし、そんな彼女の「英雄的」な行動はご存じの通り、悲劇的な結末を迎えます。残された4人の女性は打ちひしがれ、このままフュリオサについていくべきなのか迷います。そんな中、次に「自発的」に行動を起こしたのがケイパブルです。彼女はスプレンディドと仲が良く、ペアのような存在でした。そんな彼女だからこそ、亡き友の意志を継ぎ、再び「緑の地」を目指そうと決意します。
その決意がそれまでただ守られるだけの存在だった彼女の「殻」を打ち破ります。制止する声も聞かずに、後部座席での見張りへと向かうのです。そこで再びニュークスと出逢い、彼を救い、改心させ、仲間へと導き入れました。これをざっと時系列で並べてみると、
- 谷の「門」を通り抜けようとする際にスプレンディドが産気づく。
- 彼女はフュリオサを助けようと身体を張って盾となる。
- 彼女はマックスも助けようと車外に出て、その結果、墜落してしまう。しかし、その犠牲のおかげでイモータンを振り切ることができた。
- ケイパブルが自分も彼女のように、ただ守られるだけの存在でなく、己のできることをしようと思い立つ。見張りの任務を志願し、後部座席へと向かう
- そこでニュークスに出逢う。
- 打ちひしがれ、自暴自棄になった彼を抱擁し、彼にとって初めての「愛」を与える。
- その後、スプレンディドが亡くなる。帝王切開により取り出された彼女の子供も助からなかった。
- ニュークスが改心し、仲間に加わる。
『ニュークスを産んだのは誰か?』
ここで作者ジョージ・ミラーはスプレンディドの「英雄的」な行為とその悲劇的な結末である、彼女とその子供の「死」に至るまでを、彼女の行為に触発されたケイパブルの「目覚め」、そしてニュークスとの「出逢い」、さらに彼が改心し「生まれ変わって」仲間に加わるまでを交互に絡めながら描いています。
これを見ると実はニュークスに「愛」を与え、「生まれ変わり」を促したのはスプレンディドだということが分かります。あの狭い後部座席内はまさに「子宮」です。つまりニュークスは亡くなった彼女の子供の代わりとして、この世に生を受けた「生まれ変わり」であり、スプレンディドの子供なのです。
ジョージ・ミラーは女性とは生殖的な営みによってだけでなく、このような「愛」をバトンタッチしていくやり方でも「子を産む」ことができる存在なのだと雄弁に語っています。もう一度、言いますがニュークスはスプレンディドの子供です。だからこそ、母である彼女が命がけで「開けた」異世界への門を、今度は母の後を追い、母と同じように命をかけて「閉める」のです。
その8へ続く