『翻訳問題について』
僕が今回、この映画を取り上げようと思った時、一番書かなきゃいけないと思ったのは実はこの翻訳問題についてでした。もちろん、翻訳されている皆様方はこの映画を一人でも多くの方に観ていただくために誠心誠意、努力されているのは言うまでもないことでしょう。だからこれは良い、悪いではなく、言葉に対する「方向性の相違」だと考えてください。
ある言語を別の言語に移し替えるのはとても難しいことです。ある国には存在する言葉でも、日本にはそれに当たる言葉や意味するもの、考え方がないため、上手く日本語に移植できない場合だって多いでしょう。また言葉の意味以上に難しいのは「感覚」です。
一例として日本人は昔から「月」に魅せられ、それを万葉集の昔から歌として詠んできましたし、お月見という風習だって残っています。だから我々日本人は月を見上げた時にある種の特別な感慨を覚えるわけです。
『言葉を置き換える難しさ』
でも海外の方だったらどうでしょう。ある国の人なら「月なんか見て、いったい何が楽しいの?」そう言って笑われてしまうだけかもしれません。この日本人特有の「月に対する不思議な感覚」を別の文化圏の人間に伝えるのはほとんど不可能に近いでしょう。
そういえば昔、あるブラジルのギタリストがフランス人の歌手に向かって、ブラジル人特有の感覚「サヴタージ(日本語では郷愁と訳されることが多いです)」について、こう語ったそうです。物凄くうろ覚えなので、間違っていたらゴメンナサイ。大体こんな感じだった、ということでお読みください。
「それは絶対に言葉にすることはできないんだ。だから、ある例で話そう。まだ若い二人の男女がいる。彼らは愛し合い、青春というむせ返るような芳醇な時間をお互い貪りあった。離れようがない愛だった。ただ、そこまで固く結びついていた二人なのに、ある日、男は女の元から突然消えてしまう。女は悲嘆に暮れながらもその地に留まり続ける。
それから何年もの月日が流れ、ある夕暮れ、カフェで働いていた女の元に男がフラリと戻ってくる。ちょうど黄昏時だ。夕日が世界を橙色に染めながら、山の向こうに沈もうとしている。女は何を言うか? 何も言わない。男に向かって黙ってコーヒーを差し出す。男はどうするのか? やはり彼も何も言わない。ただコーヒーを受け取り、黙ってそれを飲む。二人の間には会話はない。ただお互い、じっと夕日を見つめている。
それがサヴタージなんだ。サヴタージが分からなければ、僕たちブラジル人の創る音楽は永遠に分からない」
これを読んだ時、僕が思ったのは日本人が「郷愁」などと訳した言葉では、やっぱりこの感覚は到底説明できていないんだろうなぁということでした。無理矢理日本語で言うなら「圧倒的な諦観(諦めの気持ち)に基づいた、世界を肯定できる優しさ」ってことなのかなと思いましたが、これを読んでいる人なら、あんた何言ってんの? 意味分かんない、そう言われてしまうのがオチでしょう。
話は横道に逸れましたが、翻訳ってそれだけ難しいってことです。また配給会社の方たちからすれば、これは当然ながらビジネスであり、きちんとお金を回収しなければならないわけです。そういった背景であのような訳になったのは理解できます。
ただ、それによってこの映画の作者、監督/脚本/制作のジョージ・ミラーの思いや、彼の意図したところが何カ所かで、ぼやけてしまったのは事実です。これについては話を進める上で、その都度、指摘していきます。
『シンプルな言葉ゆえの複層性』
この映画は観ていただければ分かりますが、かなり視覚的にはデコラティブ(装飾的)でゴテゴテしており、それが大きな魅力でもあります。一例を挙げるなら、大ボス「イモータン・ジョー(不死身のジョー)」やその手下ウォー・ボーイズたちのまさにMAD(狂った)な外見。ヤマアラシのように派手に改造された戦闘車。軍楽隊を担うギター男と彼が乗り込む太鼓付きのトレーラーも最高です。
でもそんな外見とは裏腹に、この映画は言葉的にはかなり「ミニマム(無駄をそぎ落とした最小限のもの)」な表現となっています。何でも作者のジョージ・ミラーは英語圏以外の国の人が翻訳字幕なしで観ても楽しめる映画にしたかったと語ったそうですが、それも分かる造りです。
僕はここまで偉そうなことを書いていますが正直、英語はかなり苦手です。でもそんな僕が読んでも分かるような単語がスクリプト(脚本)には多く並んでいました。
これは文化的に後退した世紀末の世界が舞台ということもあるでしょうが、極力シンプルな言葉をチョイスすることで、世界中の多くの人に理解してもらえると考えたのでしょう。そして誰にでも分かるシンプルな言葉だからこそ、彼は意図してそれを複層的(一つではなく、幾つかの意味が織り込まれたもの)に読み込めるよう映画を撮っています。
これは後で述べますが、この映画には幾つかの象徴的な単語が出てきます。そしてその言葉の意味するところが映画の前半と後半とでは180度変わってくるんです。
『Fury Road=怒りの道とは何か?』
では、そろそろ翻訳問題について、具体的に述べていきましょう。まずはタイトルです。ちなみに原題では「Mad Max : Fury Road」となっています。Furyとは辞書を引くと「憤怒、激怒」とあります。これはただ怒るという生やさしいものではなく、激高であり、怒りの最上級表現です。これを日本で公開する時に「Fury Road」=「怒りのデスロード」としたわけですね。これだけ見ると意味としては特にズレていません。
何よりマッドマックスはシリーズを通じて、破天荒なバイオレンスアクション映画として、女性より、まずは男性に圧倒的に受けいれられ、コアな人気を誇ってきました。なのでマーケティング的にも「怒りのデスロード」という、ややB級映画寄りの言葉のトーンは理解できます。やはり映画は興行であり、お客が入らないと駄目ですからね。
ただしこれによって、その1で述べた、これは現代の「神話」であるという視点が読み取りにくくなりました。つまりマーケティング観点から、映画のタイトルをアクションバイオレンスの側面を強調したものに置き換えた結果、作者の意図したところが見えにくくなったということです。
『神話の悪用』
Furyとは多分に宗教的な言葉で、「神の激しい怒り」を表す言葉でもあります。つまりこの「Fury Road=憤怒の道」という言葉が表す、ひとつめの意味とは、大ボス「イモータン・ジョー」が創造した、部下たちを従わせるための教義であり、彼らの中における「神話」だということです。
神話とはその1でも述べたように、ある共同体(国という大きなものから、数人の小さなグループまで)において、そのグループの「成り立ち」を語ることによって、その共同体の基盤(共通認識や文化の源流)となって、そのグループを支える「物語」のことです。
分かりやすく言うと日本人における「武士道」、イギリス人における「騎士道」にあたるもの、と言えばよいでしょうか。実際に部下のウォーボーイズで、主要キャラクターの一人であるニュークスは「If I’m gonna die, I’m gonna die historic on the Fury Road.」と叫んで戦いに向かいます。僕の稚拙な日本語訳なら「死ぬんなら、俺はFury Roadの歴史に残るような派手な死に方をしてやるぜ」となります。まさに「神話」の悪用です。
『これからを生きる、女と男のための神話』
それに加えてFuryには「ローマ神話における復讐の女神、怒り狂う女」という意味もあります。これを読んでピンときた人も多いでしょう。この物語の実質的な主人公と言えるシャーリーズ・セロン演じるヒロイン「フュリオサ」の名前はこのFuryを由来としています。
つまり「Fury Road」というタイトルが意味することのふたつめは「フュリオサの道」ということであり、彼女を中心とした女性たちが過酷な環境の中から再生し、新たな共同体を創り上げていく過程を描いた「神話」だということです。
そして最後に3つめの意味として、「イモータン・ジョー」という、世界を統率する旧世界的な価値観を象徴する王に対し、「フュリオサ」を始めとしたそれに立ち向かう女性たち。そのふたつの「神話」のぶつかり合いの中で、我々「男」という存在は今後どうあるべきなのか? を問うた、もうひとつの「神話の芽吹き」でもあります。特にラストシーンで強くそれを感じました。
その3へ続く