『呪いとの対峙』
読まれた方なら分かる通り、彼女の人生は通常なら、何度も生き直さないと経験できないようなそれはユニークなものでした。
- アラスカに生まれ、鉱山技師だった父の仕事の関係で北米の鉱山町を転々とする。
- 戦争時は父の出征にともないテキサスの母の実家に住む。祖父は腕がいいがアルコール中毒の歯科医、祖母は宗教中毒という環境で暮らす。
- 戦後、父は帰国しチリに移住。それまでの暮らしから一転して上流階級生活に。
- アメリカに戻った後、3度の結婚と3度の離婚を経験。その結果、シングルマザーとして4人の子供を育てる。
- 子供を育てるために掃除婦、電話交換手、看護師、高校教師などの職についた。
さらにユニークさに加え、それ以上に壮絶な人生でした。
- 親族一同や母の影響もあって、自身も強度のアルコール中毒である。
- 結婚と離婚の繰り返し、そして4人の子供を一人で育てる。
- 脊椎側彎症(せきついそくわんしょう)という、背骨が左右前後に曲がってしまう病気を患っていたため、少女時代はずっと矯正器具を付けて暮らしていた。
- そのせいもあって酷い苛めを受け続けた。彼女自身も集団生活になじめず、2つの学校を退学処分となる。
- 同じく幼少期に母方の祖父から性的虐待を受けている。
- 母から愛されず、常に拒絶され続けた。そして和解することなく彼女は死んだ。
- 妹は癌で苦しんだが、そんな彼女を看病し、最後まで看取った。
これは人生に暗い影を投げかける壮大な「呪い」の連鎖です。彼女の一生とはその「呪い」がもたらしたものとの戦いだったと言っても過言ではありません。
『世の中に文句など言うものか』
しかし、そこで彼女が普通の人間と決定的に違うのはこれだけ悲劇的な生活を送っても、少なくとも小説内においては決して①自分を哀れまず、②ユーモアを忘れず、③社会に対して文句を言わないこと。例えば幼少期の祖父からの虐待に関してもこんな風に描写されています。
祖父が酔っ払うと、捕まって揺さぶられるので、わたしはいつも隠れた。いちどは大きな揺り椅子の上でそれをやられた。わたしを押さえつけ、かんかんに焼けたストーブすれすれに椅子が激しく上下し、祖父のものがわたしのお尻を何度も何度も突いた。祖父は歌った、「底に穴あいた古鍋やい」。大声でがなる。あえぐ、うなる。すぐそばには祖母がいて、わたしが「メイミー! 助けて!」と叫んでも、座って聖書を読むだけだった。
ルシア・ベルリン 著/岸本佐知子 訳(2019)「掃除夫のための手引き書」講談社
何ともえげつないシーンですが、これを読んで唸らされるのが、彼女が小説内に「主体としての自分=自意識」を持ち込んでいないことです。分かりやすく言うと祖父や祖母を小説内では断罪していない。このシーンでも感情を押し殺し、カメラ的にはグッと引いて後ろから撮っている。だからこそより一層、悲劇性が強調される。
『冷徹なまでの自意識の排除』
あるいはアル中のシングルマザーが家族の目を盗んで酒を飲もうと苦闘する、まさに彼女の実人生を切り取ったような『どうにもならない』でのワンシーン。深夜、禁断症状に苦しみながらも家を抜け出し、酒を買って帰ってきた場面です。
彼女は急いで通りを渡り、家までの道をよたよた小走りに走った。九十、九十一、ひび割れを数えながら。玄関に着いたとき、あたりはまだ真っ暗だった。
息が苦しかった。電気をつけずに、コップにクランベリー・ジュースを注ぎ、ウォッカをボトル三分の一入れた。食卓に座ってちびちびそれを飲むと、アルコールの優しさが体のすみずみまでしみわたった。彼女は泣いていた。死なずに済んだのがしみじみありがたかった。コップにもう三分の一とジュースを注ぎ足して、ひと口飲んでは、合間にテーブルに頭をつけた。
ルシア・ベルリン 著/岸本佐知子 訳(2019)「掃除夫のための手引き書」講談社
禁断症状のもたらす切迫感をあえて三人称視点にすることでサラッと描いています。彼女にとって重要なことは己というフィルターを通して知覚した「世界の何か」を変換し、「物語」として立ち上げること。それには「自意識」など邪魔でしかない。後書きにおいて本作の編者であり、作家でもあるリディア・デイヴィスがルシアの息子の言葉を引用して、こう述べています。
「わが家の逸話や思い出話は徐々に改変され、脚色され、編集され、しまいにはどれが本当のできごとだったかわからなくなった。それでいい、とルシアは言った。物語(ストーリー)こそがすべてなのだから、と」
ルシア・ベルリン 著/岸本佐知子 訳(2019)「掃除夫のための手引き書」講談社
おそらくルシアが述べた「物語(ストーリー)」とは彼女にとっての「真実」のようなものであったのであろうと推察します。そして個人的な見解ですが「現実」にあったことをそのままトレースしても「真実」には辿り着けません。
『フィクションでしか、語れないものがある』
例を挙げるならサリンジャー、カート・ヴォネガット、レイモンド・チャンドラー。彼ら3人はアメリカ文学の巨星ですが、ある共通点があります。それは「戦争の記憶」。彼らは時期も場所も違えど、それぞれが世界大戦に参加し、何より精神に深い傷を負いました。それは当然ながら彼らの一生に暗い影を落とした。しかし、3人はその体験をストレートに描くことはしませんでした。
代わりに彼らは一見、戦争とは関係ない独自のフィクション世界をそれぞれ立ち上げました。なぜなのか? やはりそれは壮絶な体験をそのまま描いても戦地で体感した「何か」が立ち上がってこない、だから別の容れ物=フィクションを作るしかなかったのだと思います。だからこそ注意深く読めば、どの作品にも彼らにとっての「戦争小説」とでも言うべき側面が見えてくる。
一例としてチャンドラーの『ロング・グッドバイ(長いお別れ)』とはハードボイルド小説の金字塔という以上に、戦争によって、この世界=社会を信じることができなくなった哀れな男=チャンドラーが半生を経た後、戦争で受けた傷と後遺症の告白をフィリップ・マーロウというタフガイの洒脱な佇まいの後ろに隠れて、そっと行った小説であると思っています。
ルシア・ベルリンの凄さとは一見、己の実人生をそのまま小説世界に移植したように見せながら、そこに自意識を絡ませず、自立した「小説世界」を立ち上げられること。ここに彼女の真骨頂がある。しかしこれには多大な「痛み」も伴う筈です。書くことが「救い」になる作家もいますが、彼女は断じてそうではなかったと思います。
わたしがここまで長生きできたのは、過去をぜんぶ捨ててきたからだ。悲しみも後悔も罪悪感も締め出して、ぴったりドアを閉ざす。もしもちょっとでも甘い気持ちで細く開けたが最後、バン! たちまちドアは押し破られ、苦悩の嵐が胸の中に吹きこみ、恥で目がつぶれ、コップや瓶が割れ、ジャーは倒れ、窓は割れ、こぼれた砂糖とガラスの破片でしたたかすっ転んで、おびえ取り乱し、そうしてやっとぶるぶるふるえて泣きながら重いドアを閉ざす。散らばった破片を一から拾いなおす。
ルシア・ベルリン 著/岸本佐知子 訳(2019)「掃除夫のための手引き書」講談社
その3へ続く