個人は世界を変えられるのか? 「進撃の巨人」で諫山創が描いたもの ─ その2

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『真正面から【政治描いた漫画』

先に書いたその1で、「進撃の巨人」が他の漫画と比較した場合、出色としたのはこれまでのエンターテイメントが目を背けていた、難解で残酷な「現実」を真正面から描ききった事だと述べました。それがよりハッキリしてくるのが5巻以降です。それまでアクション漫画だった作品の中に、この現実世界を操る「政治」の要素がグッと入り込んできます。

諫山創(2011)「進撃の巨人」 第5巻 講談社

その発端がエレンが中央政府の審議所で兵法会議にかけられた際、憲兵団師団長ナイル・ドークによるエレンの人体を徹底的に調べ上げ、データ化した後に速やかに殺せと告げる以下のセリフです。安っぽいヒューマニズムの欠片もありません。

彼の巨人の力が今回の襲撃を退けた功績は事実です。しかし…その存在が実害を招いたのも事実。彼は高度に政治的な存在になりすぎました。なので、せめてできる限りの情報を残してもらった後に、我々人類の英霊となっていただきます。

諫山創(2011)「進撃の巨人」 第5巻 講談社

「政治」とは何か? 一例としてWikipediaを覗いてみると様々な説明が溢れています。抜粋すると、広辞苑では「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象」とされ、大辞泉では「1.主権者が、領土・人民を治めること。2.ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用」とあるようです。

理解できているようで実は良く分かっていない。突き詰めていくと何とも難しい「政治」ですが、この「政治」が炙り出す人間の業と魅力に取り憑かれ、著作を重ね続けている日本を代表する歴史作家がいます。実は「進撃の巨人」を読み進める上で、その人の存在と諫山さんが僕の中でダブってきました。その大作家とは塩野七生さんです。

塩野さんの作品を最初に読まれるなら、こちらをお勧めします。

『現実を変えるのが、政治である』

膨大な著作数を誇る塩野さんですが、一貫して社会における権力の中枢で「政治」を駆使して「世界=現実」と切り結ぶ人々を描き続けてきました。中でも彼女のインスピレーションを強く刺激したのが「マキャヴェリズム(権謀術数主義)」の言葉でも知られる、偉大なる中世イタリアの思想家マキアヴェッリです。

彼が書いた「君主論」は名著として今も多くの人々を魅了し続けています。ちなみに現在の世界の君主たるアメリカ合衆国大統領の執務室の本棚にはこれら全巻が並んでいるそうです。そこで語られているのは甘っちょろい「正義やモラル」など鼻であしらう、徹底した「現実主義」の視点に基づいた思索の数々。以下、彼の思想を端的に表す言葉を幾つか抜粋してみましょう。

「君主たらんとする者は、種々の良き性質を全て持ち合わせる必要などない。しかし、持ち合わせていると人々に思わせることは必要である。いや、ハッキリと述べるなら実際に持ち合わせていると有害なので、持ち合わせていると思わせるのが有益である」

「我々の経験は信義を守ることなど気にしなかった君主の方が、偉大な事業を成し遂げていることを教えてくれる。それどころか、人々の頭脳を操ることを熟知していた君主の方が、人間を信じた君主よりも結果から見れば越えた事業を完成させている」

「不正義はあっても秩序ある国家と、正義はあっても無秩序な国家のどちらかを選べと言われたなら、私は前者を選ぶ」

「君主たる者、酷薄だと悪評を立てられても気にする必要はない。歴史は思いやりに満ちた人物よりも、酷薄と評判だった人々の方が、どれだけ民衆を団結させ、彼らの信頼を獲得し、秩序を確立したかを示してくれている」

「人間とは必要に迫られない限り、善を行わないようにできている」

「個人の間では法律や契約書や協定が真偽を守るのに役立つ。しかし権力者の間で真偽が守られるのは、力によってのみである」

「人の為す事業は、動機ではなく、結果から評価されるべきである」

「結果さえ良ければ、手段は常に正当化されるものである」

塩野さん自身がマキアヴェッリの言葉を抜粋しています。

「政治」とは今の日本、特に野党やリベラルの言論人に多い、単なる政権批判や、高邁な理想を解決方法も提示せずに垂れ流すことではありません。徹底的に「現実」を直視した上で「現実」を変える手段を構築し、何より「実行」に移した後、「結果」という果実を得ること。理想を胸にしまい込み、世俗に汚れながらも「現実」と切り結び、例えわずかでも昨日とは違う明日を目指して、世界を創り変えていくこと。つまり「変えられない者は政治家ではない」のです

それでは「進撃の巨人」の中で、具体的に「政治」を体現する存在とは誰か? 「政治」を駆使し、世界を変えていこうと足掻く者、それが調査兵団団長エルヴィン・スミスです。

諫山創(2011)「進撃の巨人」 第5巻 講談社

『己の欲求をどう【実現】し、【社会】と合致させるのか』

しかし読み進めれば、エルヴィンは決して人類の未来の為だけに行動していたのではないことが分かってきます。けれどこれは人間の必然です。無私無欲の人など現実に存在などしない。己のたぎる欲望を内に秘めながらも、社会と己の欲望を摺り合わせ、現実と対峙し戦う。そこで多くの仲間の命が消えていくにも関わらず……。

今作でエルヴィンとは「民主主義=過半数以上の賛同を得ながら物事を実行する」という手法を用いずに「暴力(テロリズム)=他者の意見を聞かず、己を中心とした暴力で世界を変えようとする」で突き進む主人公エレンと合わせ鏡のような関係となっています

エレンの潜在的な願望は閉ざされた壁の外へ出て「まだ知らない世界を見る=冒険欲を充たす」ということ。一方、エルヴィンの願望は教師であった父の資質を受け継いだことによる「この世の真実を知る=知識欲を充たす」ということでした。

これら2つの欲求は人間が生物種として根幹に抱えるものです。まだ知らない世界を見たい。まだ知らないことを知りたい。これこそが人類を成長させ、他生物との過酷な生存競争を勝ち抜き、地球の王として君臨せしめたのです。

結局、エレンとエルヴィンは共に姿を変えた諫山さんなんですよね。彼の葛藤と描きたかった世界がそこにある。だからこそ「エレン=どこまでも自由な個人の意思」と「エルヴィン=熱烈な個人的願望がありつつも共同体の必要性を認め、利用しようとする者」それぞれは、苦しみながらも前へと突き進むことをやめない

諫山創(2016)「進撃の巨人」 第19巻 講談社

…イヤ…違う。なぜかではない……。私は気付いていた。私だけが自分のために戦っているのだと。他の仲間が人類のためにすべてを捧げている中で……。

私だけが自分の夢を見ているのだ。

いつしか私は部下を従えるようになり、仲間を鼓舞した。人類のために心臓を捧げよと。

そうやって仲間を騙し、

自分を騙し、

築き上げた屍の山の上に、私は立っている。

諫山創(2016)「進撃の巨人」 第19巻 講談社

エレンとエルヴィンは登山に例えるなら、ルートは別であっても目指す「山の頂き」は同じ。そして彼らは別々の道を行きながら、別々の地獄をくぐり抜け、それでも互いに頂点を目指すのです。これを表すのにまさに適切な言葉がマキアヴェッリの「君主論」にあります。塩野七生さんは先に挙げた著作「マキアヴェッリ語録」の最後をその言葉で結んでいます。

天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである

その3へ続く

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