人は絶対に分かり合えない、「こちらあみ子」が突きつけた絶望、そして ─ その2

『あみ子=この社会の外で生きる者』

『こちらあみ子』がなぜ大傑作たり得たのか。当然ながら一言で語り切れるものではありませんが、それでも最も大きな理由として、今村さんが「あみ子」を発明したからに他ならないでしょう。この一大発明である、あみ子という「システム」がこの作品を牽引し、強力にドライヴさせているのは間違いのないことだと思います

あみ子=「システム」と書くと何やら無機質で冷たい印象を持たれるかもしれません。これは一般的には「キャラクター」と呼ぶべきなのでしょうが、敢えて僕はシステムと呼びます。まずキャラクターに関して説明していきましょう。これは見た目や年齢、性別、性格など個々の登場人物ごとのパーソナルな特性を指します。

一方、システムとはもっと概念的なものです。辞書を引くと①個々の要素が有機的に組み合わされ、まとまりをもつ全体や体系。あるいは②全体を統一する仕組み。また、その方式や制度とあります。僕はその1で今村さんは「この社会を構成する境界線の一歩だけ外に立って、こちらの世界を俯瞰する視点を有する作家」ではないかと述べました。

境界線上の外、つまり「我々の生きているこの社会とは別のルールに沿って生きている」のがあみ子であり、それは「パーソナル(個人的な)」という僕らの社会内での価値観の差異としては捉えきれません

あみ子は誰よりも誠実に生きています。けれど彼女の従うルールがこの社会のものでないからこそ、すれ違いが生み出され、その結果お互いを深く傷つけていく。この「半永久的にすれ違いを生成していく構造」自体はやはりシステムだと思います。

なぜ、この作品が芥川賞を取らなかったのか? と言うよりなぜノミネートされなかったのか?

『赤い部屋と、のり君が意味するもの』

今村さんはメタフォリカルな表現を多用する作家です。例えばこれまでに何度も述べた僕らが属する「一般的な社会」ですが、それは習字教室の開かれる「赤い部屋」として表現されています。だからこそあみ子は人外の存在、つまりは「ばけもの」として、母からその部屋に入ることを許されていない。まさに彼女は境界の一歩外に立つ人間として、襖の隅からそっとこちらの社会を「覗いて」いるのです。

「あみ子が見とるよ。先生」

「先生。後ろ、後ろ」ひとりの男の子が元気いっぱい立ち上がった。腕をまっすぐに伸ばして筆の先をあみ子に向けた。母の黒い頭がくるっと回転したと思ったら、次の瞬間、細くとがった二つの目がこちらを見て、とまった。

ゆっくりと近づいてくる母のあごの下のほくろを見上げながら、あみ子は堂々と訴えた。「入っとらんもんね。見とっただけじゃもん

今村夏子 著(2011)「こちらあみ子」筑摩書房

たった数行でこの社会における彼女の立ち位置に加え、「入っとらんもんね。見とっただけじゃもん」の台詞であみ子の抱える切なさを雄弁に描き出しています。正直、この一行は読んでいて泣きそうになりました。

そしてその入ることの許されない「社会=赤い部屋」であみ子はのり君を発見し、激しく魅せられます。これを厳密に述べると彼女はのり君本人の個性(キャラクター)ではなく、「きれいな字」を書く至高の存在として彼を尊敬し、愛するのです。

ここで重要なのは文中に何度も出てくる「きれい」と言う言葉。この「きれい」という概念があみ子にとって大きな意味を持つのです。「きれい」とは彼女にとっての至高のルールです。我々の社会の言葉なら「神聖な」と置き換えてもいいでしょう

だからこそ母へのプレゼントである『弟の墓』の字はどうしてものり君に書いて欲しかった。あみ子は一般社会を自分のルールで解釈しようとし、家族やその他の人は一般社会のルールであみ子を解釈しようとします。そこから生み出されるのは以下のような永遠のすれ違いでしかありません。

「あみ子が、たのんだん、のり君に」

「そうよ」

「なんで」

「のり君字うまいけえ」

「ほうじゃなくて、なんでお墓作ろうと思ったん」

「弟死んどったけえね。おはかがいるじゃろ。お母さんのお祝いも」

「お母さんはこれもらってうれしいかの」

「うれしくないかね」

「泣いとったじゃろう」

「うん。でもあれってほんまにいきなりなんよ。あみ子なんにもしてないよ」

「あみ子」

「なに」

「あみ子」

「なんなん」

すでに日が暮れていた。兄は腹が痛むのをこらえているような顔をして、口を開きかけてはまた閉じて、結局それ以上はなにも言わずに背を向けた。

今村夏子 著(2011)「こちらあみ子」筑摩書房
祝、芥川賞。姿を変えたあみ子がここにもいます。

『鏡像関係となる、あみ子と母』

その後、あみ子に破壊された母は彼女にとって唯一「社会」との接点であった、かつて習字教室を開いていた「赤い部屋」に引きこもり、そこから出てこなくなります。ここも象徴的です。あみ子は「社会の外」の孤独な存在ですが、母は「この一般社会の中」で扉を閉ざし、独り引きこもっています。つまりあみ子と母は、実は「対」となる存在なのでしょう

僕はその1であみ子を「ばけもの」だと書きましたが、この物語には実はもう一人の小さな「ばけもの」がいます。それが他でもない母なのではないでしょうか。なぜならあみ子が一般社会のルールを理解せず行動するが故に皆から「ばけもの」扱いされるのと同様、母もまた、あみ子の生きている世界を「汚らしいもの」として忌み嫌い、彼女の内面をまったく「想像しない=愛そうとしない」。つまりあみ子から見た場合、母もまた「ばけもの」なのです

だからこそ、2つの世界を分断する境界線を中心に見立てた場合、彼女らは鏡像関係に当たり、見方を変えれば今作は二人の「ばけもの」が対決する話だとも言えます。では、なぜ母はあみ子に勝てないのか? それは彼女があみ子を「理解しよう=愛そう」としなかったから

この話では最後にギリギリ二人の人間があみ子と微かな「交感」を果たしますが、それは彼らがあみ子を「理解しよう=愛そう」としたからであり、あのトランシーバーとはその象徴に他なりません。

その3へ続く