『お爺ちゃんとなったウッディ』
「1」から「3」において、ウッデイらはアンディの「親」として、ずっと彼の成長を見守ってきました。しかし大人になったアンディは「親離れ」を果たし、新たな世界へと旅立っていく。そして「3」の終わりでウッデイら一行は「おもちゃ」として新たな生活の場であるボニーの元へ趣きます。
しかしアンディの時と違うのは、既にボニーの元には別のおもちゃたちがいて、中でもぬいぐるみのドーリーはみんなをまとめる存在です。そんな中、ウッディは残念ながらボニーのお気に入りにはなれない。なのに過去の栄光にすがるかのように「アンディの時はさ……」などKYな発言を繰り返します。
これってドーリーがボニーの母親代わりなのだとしたら、ウッディらはお爺ちゃんやお婆ちゃんのような存在になった、そういうことだと思うんです。つまりボニーはウッデイらにとって「孫」である。今も昔もお爺ちゃん&お婆ちゃんは娘や息子と一緒になって「孫」の世話をすることは多い。
しかし「子」と「孫」の決定的な違い、それは子どもらにとってお爺ちゃん&お婆ちゃんは必ずしも必要な存在ではないわけです。ここがアンディの時とは違う。しかし、ウッデイはそれに気づいていない。既にドーリーという母親がいるのに、彼女の上に立って色々指示を出そうとする。こんな痛いお爺ちゃん&お婆ちゃん、いますよね……。
加えて、このウッディの行動は世の男性が常々考えておかなければならない「仕事」がなくなってしまった後の人生、俗に言う定年後についても示唆しています。ウッディの「もう俺にはこれしかないんだ!」という悲痛な叫びは僕ら中高年男性の心に深く突き刺さるものがあります。実際、仕事だけに生きてきた男たちは定年後、引きこもりになることが多く、妻や子供からも嫌われ、疎まれる「うざい」存在へと堕ちていきます……。
『フォーキーの誕生』
新作「4」で重要なのはやはりフォーキーでしょう。彼はボニーが使い捨ての食器などを集めて作った存在であり、当初は自分がおもちゃであることを認めようとしません。PIXARの作品は常に多層的な造りになっています。分かりやすく言うと子供目線で見た場合と、大人目線で見た場合で見え方が違う。
まず子供の目線から見た場合、フォーキーとは「おもちゃ」の概念を大きく変える存在です。おもちゃはただ買い与えられるものだけではなく、自らの手で作り出すことだってできる。それに必要なのは作り出す人間の「心」なんだと知る。
一方、大人の目線から見るとフォーキーとはウッディにとって「孫」にあたるボニーが産んだ「新たな子ども」のような存在です。しかしフォーキーはある種の自閉症でゴミ箱の中に埋もれ、誰とも関わり合いになりたくないと駄々をこねる。そんな彼を更生させよう、これが最後のご奉公とばかりにウッディ爺ちゃんは張り切ります。
しかし、そこには暗い欲望もある。これは必ずしも利他的な行為ではなく、利己的で身勝手な動機、すなわち定年後の何もやることがない自分にも「仕事」が欲しい。そして上手くこれをやり遂げることができたなら、もしかしてボニーは自分に振り向いてくれるのではないか? 「もう俺にはこれしかないんだ!」そう叫んだウッディ最後の悪あがきでもあるのです。
『選ばれることがなかった、別の人生という可能性』
そんな中、ウッディはボー・ピープとの再会を果たします。ではボーとは何者なのか? 端的に言えば昔、別れた女です。しかしそれが象徴するところは「こうなることがあったかもしれない別の人生」ではないでしょうか。人とは日々様々な選択肢を選び取り、もしくは仕方なく選ばされることで生き続け、その結果として今の自分がある訳です。
でも、誰だって心のどこかに「こうあり得たかもしれないもう一人の自分」「こうあり得たかもしれない別の人生」、それを抱いて生きている。その象徴がボーなのでしょう。だからこそフォーキーを無事に連れ戻せそうだったにも関わらずウッディはアンティークショップ「セカンドチャンス(意味深な名前です)」で見かけた、ボーの痕跡である電気スタンドに引き寄せられてしまうのです。
ボーは見かけは可愛らしい陶器人形ですが、実体はウッディと同様、年取ったお婆ちゃんと言った感じ。実際、右腕は既に壊れ、無理矢理くっつけられている状態です。しかし彼女にはウッディより早くおもちゃをドロップアウトしたゆえのたくましさがある。
これって定年を過ぎても「おもちゃという仕事=会社」にしがみ続けているウッディに対し、早くに会社を辞めて独立し、それなりに自分を食わせられるようになっている、真に「自立」した大人を思わせます。
『セカンドチャンスにかける大人たち』
この映画に登場する新たなキャラクターたち、すなわちウッディの背中にあるボイスボックスを狙うギャビー・ギャビーや、CMのように飛ぶことができず、持ち主から見捨てられたライダー人形のデューク・カブーン、射的の的として、いつか子どもたちに持って帰ってもらうことを夢見ながらも何も起こらず、ここまできてしまったダッキー&バニー。
そしてボー・ピープだってアンディの家を出てからはおもちゃをドロップアウトし、流浪の生活を重ねています。つまり人生のファーストステージでつまずいてしまった人たち。そんな彼らとの交流の中、ウッディはいかに自分が恵まれていたのかを知ります。
今は定年を迎えたけれども、それでも「おもちゃ」として存分に働けた自分は幸せだった。だからこそ彼はボイスボックスをギャビーに譲る決断をします。数秒のカットですが、ボックスが抜き取られた後、背中を縫い合わせられるシーンは結構ショッキングです……。これって、ある種の臓器提供のメタファーなのでしょう。
もう自分は歳を取り、おもちゃとして生きることは叶わなくなった。でも、ギャビーはまだ、そんな「世界」にデビューすら出来ていない。だからこそ彼女をおもんばかり自分はステージを降りる。そして彼女へと「役」を譲る。ここでようやく彼は「本当の子離れ」を果たし、その結果、「何者でもない」存在になります。
やがてウッデイはメリー・ゴーランドのテントの上と、キャンピング・カーの屋上、その「狭間(はざま)」でバズと向かい合います。「向こう側」と「こちら側」、「おもちゃという社会的役割を有する者たち」と「何者でもない者たち」、「過去の自分」と「現在の自分」。
あのキャンピング・カーから突き出た幌(ほろ)の上はウッディにとって「様々な人生の交わる境界線であり、別れ道」です。だからこそ、そんな場所に立つのは互いを認め、助け合い、人生を共有してきたバズ、ただひとりにしか許されない。そこで彼の口から発せられた、
「ボニーなら大丈夫だ!」
ウッディの新たな人生に向かって背中を押す、この一言にはやっぱり感動しました。やはりこれはウッディの人生の岐路に立つことを許された、バズにしか言えない台詞でしょう。ずっと育まれてきた2人だけの時間、2人だけの想い。それがあるからこそ言える言葉がある。
「おもちゃ」として生き続ける者たち、そうでない者たち。どちらが正解かなんて分からない。人生に絶対なんてないし、後悔のない人生だってない。だからこそ人は考える。自分はどうあるべきなのか? そこで導き出した結論にそって先へ行く。
『死に向かって、どう生きるか?』
でも楽な人生なんてどこにも存在しない。実際バズたちと別れ、残りの余生を添い遂げることを決めたウッディとボーの背景には大きく満月が映し出されています。「生命や誕生」を象徴する太陽に対し、月は「死」を象徴する存在です。つまりそれが意味するのは彼らに残されているのは老年として緩慢に「死」へと向かう下り坂の人生なんだということ。
しかし満月にはもう一つの意味もある。それは「再生」。例え下り坂へ差しかかった人生であっても、新しいことができない訳じゃない。残された時間の中で、何かにトライすることはできる。子を産み、育てるという生物学的役割を終えた人たち、すなわち「何者でもなくなった者たち」=「別れを噛みしめた者たち」だけが享受できる人生だってあるんじゃないのか? 僕がこの「トイ・ストーリー4」を人生100年時代の神話と書いたのはそういう意味です。
『この先にある、トイ・ストーリー5へ』
「神話」とはある共同体において、そのグループの「成り立ち」を語ることによって、その共同体の基盤となって、そのグループを支える「物語」のことであり、つまりそのグループの「始原(始まりの物語)」を語るものでした。
分かりやすく言えば「1」のようにかつて「子供」だった者たちが苦難を経て「親」になるというものです。従来ならこれだけで良かった。しかし人生100年時代となった今、僕は3つのカテゴリーの神話が必要になったと思っています。
1つ目は「1」のように子供が大人へと成長する従来の物語。そして2つ目は本作のように、人生の折り返し地点を過ぎた者たちが、その先に待ち受ける「死」を意識しながらも「再生」していく物語。実際その後のウッディらはおもちゃを助け出す、ある種の「ボランティア活動」にいそしんでいることが分かります。
そして最後、3つ目とは「死」と直面し、それを受け入れていく物語です。人間は昔に比べて良くも悪くも簡単に死ねなくなりました。だからこそ安楽死が社会問題ともなっている訳です。そういう時代背景を考えると今作「4」の先には「死」と向き合い、それを受け入れ、覚悟を持って、その先へと進んでいくウッディを描いた「トイ・ストーリー5」が残されているのではないでしょうか?
そんなもの見たくない、みんなそう言うかもしれません。しかし「3」で終わらせず、「4」へと物語を進めてしまった以上、それ以外の選択肢はないと個人的には思うのですが……。そして今作を駄目だと非難した多くの人たちは、実は潜在的に「トイ・ストーリー」という子供向けの楽しい娯楽作品が、ここまで行き着いてしまう可能性と危険性を敏感に察知していたんだと思います。
そういう意味では本作は恐ろしい作品であり、しかし同時に今後の世界を生きる上で必要なこととは何か、を真摯に突き詰め描いた、現代の「神話」でもあります。こう呼べる作品が今の世にどれだけありますか? やっぱりPIXARって凄い! そう思いますし、これをリアルタイムで観れた僕たちって幸せですよね。