『なぜ、3で完結しなかったのか?』
「トイ・ストーリー4」に関しては予告編を見ていて、個人的にこうあって欲しいな、と思っていた内容がほぼ全てに渡って展開されていたので大満足な映画でした。しかし、Webを覗いてみると評判はあまり良くない。かなり辛口の意見を言う人も多かったですね。ある程度、評価している方でも、まぁ、こんな感じだよね的で、熱狂的に最高って方は少なかったです。
もちろん、もう少し経てば違う意見が増えるかもしれません。そもそも作品の本当の評価なんて最低でも10年以上経たないと分からないものです。その過ぎゆく年月の中で浮かび上がる作品もあれば、沈んでいく作品だってある。しかし、この「4」がここまで色々と叩かれた理由は大きく言って2つあるんだと思います。
まず1つはそもそも前作「トイ・ストーリー3」があまりに素晴らしすぎたこと。これに同意しない人はいないでしょう。あの「3」があるからこそ、このシリーズはピクサーの数ある作品の中で金字塔となり得た訳です。特にストーリー構築には唸らざるを得ない。子供であっても大人であってもそれぞれの立場から愉しめる、恐ろしいまでの完成度でした。
しかも最後に見事な円環構造によって幕は閉じられ、完璧なる結末を迎えていた。なのにその美しくパッケージされた世界を無理矢理こじ開け、新たなお話を立ち上げるのは如何なものか? それに対する不満を抱いた方が多かったのでしょう。
これは傑作につきまとう大きな問題であり、ファンであればあるほどその思いが強いのは当然です。やはり人生の節目に「トイ・ストーリー」シリーズに出逢い、その感動が心に「食い込んでいる」人ほど失望感も大きくなってしまうのでしょう。
『おもちゃを辞めるウッディ』
そして不評の理由、2つめはやはり終盤におけるウッディのあの決断でしょう。要するに「おもちゃ」であることを辞め、再会した愛する女性と共に生きていく人生を選び取ることについてです。ある人間が人生の分岐点において、これまでとは違う別の生き方を選択する。それ自体、何ら悪いことでないのはみんな頭の中では理解しているはずです。しかし、それを「トイ・ストーリー」でやるのかよ! そういうことだと思います。
あの決断は「トイ・ストーリー」そのものの否定に繋がりかねない。なぜなら「トイ・ストーリー」がもたらす感動の最大の源泉、それは彼らが「おもちゃ」であること。この映画の中で「おもちゃ」とは子供たちがいなければ価値のない、極めて脆弱な存在であり、例え一生懸命、彼らに尽くしたところで、やがて子供は大人となり、平気で自分たちを見捨てていく。しかしそれでも彼らはおもちゃであることを辞めない。
そんな彼らを支えているのは【この世に生まれ、使命や役割を与えられたのなら、どんなことがあってもそれを全うしようじゃないか、という健気さ】です。それは「個人は自由を全うすべきである」という現代社会(特にアメリカ)が掲げる個人主義とは、真逆にあるものであり、しかし、それこそが「トイ・ストーリー」の根幹を成すものです。
だからこそ、ウッディーが「おもちゃを辞める」という「個人的な選択」をしたのが皆、許せないのでしょう。もう一度、書きますが彼は間違っている訳ではありません。それはみんなも分かっている。でも、それを「トイ・ストーリー」ではやらないでくれよ。そういうことですよね? そんな中、僕は少数派に属するのかもしれませんが、「おもちゃを辞める」ウッディが見たかったのです。
『トイ・ストーリーは、何を描いてきたのか?』
もはや「トイ・ストーリー」は一大サーガと呼ぶべき「現代の神話」たるポジションを確立したと思います。過去の投稿でも書きましたが、「神話」とはある共同体(国という大きなものから、数人の小さなグループまで)」において、そのグループの「成り立ち」を語ることによって、その共同体の基盤(共通認識や文化の源流)となって、そのグループを支える「物語」のことです。
では「トイ・ストーリー」とは、どのような共同体にとっての成り立ちの物語だったのか? これは映画評論家、町山智浩さんがWOWOWの「町山智浩の映画塾」(※音声が出るのでご注意ください)の中でも述べられていますが、世界中の全ての「子を持つ親たち」に向かって描かれた、「子供を授かり、自分が親になるという覚悟と苦悩を受け入れていく過程」を描いた神話なのです。
先に僕は「おもちゃ」とは子供がいなければ意味のない脆弱な存在で、一生懸命、彼らに尽くしたとしても、子供はやがて大人となり、平気で自分たちを見捨てていく。しかしそれでも彼らはおもちゃであることを辞めない。そんな彼らを支えているのは【この世に生まれ、使命や役割を与えられたのなら、どんなことがあってもそれを全うしようじゃないか、という健気さ】であると書きました。
これってまさに世界中の親の気持ちそのものでしょう? 女性なら、つわりや出産時の激烈な痛みに耐え、ようやく生まれてきたかわいい我が子。しかし彼らはあっという間に大きくなり、反抗期には親に向かってつばを吐く子だっている。そして恋人を見つけ、その人の元へと去り、親たちは取り残される。
子育てには膨大な労力と時間、お金だってかかります。親たちは皆そこで子供に「自分の人生」を削り取られているわけです。なのに子供はそんなことは知らんぷり。一体そこに報いはあるのか? そんな問いに対して「ある」と「トイ・ストーリー」は雄弁に語り続けてきました。
『いつか人は親になる』
アニメーション映画を観に来るのは子どもたちだけど、引率する立場で大人だってやってくる。だったら両方とも愉しませればいいじゃないか! これがPIXARが他のアニメーションスタジオと完璧に一線を画した点でした。もちろんスタジオ・ジブリという前例はあったものの、子供と大人を両方愉しませる、これを明確に「戦略」として掲げたスタジオは世界初だったのではないでしょうか?
子供の立場から見れば、おもちゃが動くという不思議と、おもちゃという小さな存在の視点から見た世界の不思議さ。一方、大人の立場から見れば、子供を育てるという理不尽さをおもちゃたちが自分らの身代わりとなって、一心不乱に引き受けてくれる。それにより、この辛さを分かち合ってくれる誰かがいるんだと潜在的に安心できる。
何でもない一人の人間が「親」になる。その驚きと戸惑い、さらに今まで夢見ていたことを諦め、子供を育てるという人生を選び取るまでを描いた「1」。バズが自分は宇宙のヒーローなどでなく、単なるおもちゃだと知った時のあの表情。「1」屈指の名場面ですよね。自分は何者かになれると思っていた、しかし何者でもなかった。それを淡々と受け入れ、アンディの「おもちゃ=親」として彼と寄り添う人生を選択をするバズ。
この意味に気づく人、気づかない人、それぞれですが、表層的な言葉の部分では理解できなくても、みんな深いところでは充分に理解し共感している。それによって子供はもちろんのこと、それ以上に大人たちに受け入れられ、大ヒットした。だからこそ皆さんも「ウッデイ、頼むからこのままでいてくれよ。僕たちを置いていかないでくれよ」そう願ったのでしょう。
しかしPIXARはこの話を先へと進めました。それはすなわち、あの場面でのウッディの決断、「おもちゃ=親」であることを辞めるということに他なりません。これはある意味必然です。なぜなら子供が親離れをすると同様に、親は子離れしなければならない。
「3」は表面上ではウッデイたちがアンディから「子離れ」を果たすというお話でしたが、その行き着く先は「おもちゃ=親」のままで「別の子供=ボニー」の元へ趣くというものでした。僕はこの「3」のエンディングを観て、感動したのと同時に、これって問題の先送りじゃないか? そうも思いました。
『本当のトイ・ストーリー=その先の人生へ』
日本には「ドラえもん」という、過去には素晴らしい時期もあったけれど、今は外見だけそのままで中身を骨抜きにされ、広告代理店とテレビ局の金稼ぎの道具となった、もう「作品」とは呼べない、単なる「コンテンツ」があります。
のび太はいつか成長して、ドラえもんから卒業しなければならない存在です。しかし、広告代理店とテレビ局はいつまで経ってものび太の成長を先送りさせ、単なるダメ男のまま固定化し、仕方なくドラえもんは「四次元ポケット」という打ち出の小槌を振り続ける。
一方、同じような話を延々垂れ流し、お金儲けを続けることも出来たのに「トイ・ストーリー」はそうならなかった。その先へ行った。その試み自体は賞賛されるべきだと思います。ドラえもんは今や純粋なビジネスであり「商品」です。
しかし「トイ・ストーリー」はビジネスではありながらも同時に「アート」である。アートとは人間のこれまでの常識に問題提起し、これまでの常識を変える尊い存在です。僕はPIXARが「4」を作ったのはドラえもんのような金勘定ではなく、アートとして、この先へ行かなければならない。
ファンは観たくないかもしれないが、ここまで人々の眼目を集める「作品」となったからこそ、行かなければならない境地がある。その心意気で作ったのだと思います。
『人生の黄昏期へ』
下に貼った、本作のメインビジュアルを見てください。「美しい夢の国=移動遊園地」がウッディとバズの眼下に広がっています。しかし映画を観た人なら分かりますが、このシーンは夕暮れです。つまり人の一生におけるの黄昏(たそがれ)時を表現しているということなんですね。いつしか2人も歳をとり、今や人生の終盤へと足を踏み入れようとしている。
このビジュアルは見れば見るほど本当に良く出来ています。極論を言うとPIXARがこの物語に込めた想いがほぼずべて表現されているのではないか。夕暮れの世界は美しい。しかしその先にあるのは「夜の暗闇=死」です。
その間に瞬く、儚くも美しい瞬間。そこへ足を踏み入れた2人。生物としての人間に課せられた最も重要な使命=子を産み、育て終わった後の人生に意味はあるのだろうか? それを強烈に問うた作品が「トイ・ストーリー4」なのだと思います。だからこそキャッチコピーが【あなたはまだ本当の「トイ・ストーリー」を知らない】なのでしょう。
僕は「トイ・ストーリー」を神話だと書きました。しつこいですが「神話」とはある共同体(国という大きなものから、数人の小さなグループまで)」において、そのグループの「成り立ち」を語ることによって、その共同体の基盤(共通認識や文化の源流)となって、そのグループを支える「物語」のことです。
PIXARは人類普遍の神話として「子供」であった自分が「親」になるという、この摩訶不思議な、しかしほとんどの人に訪れる人生のターニングポイントを「神話化」しました。それが「1」です。そして彼ら「親」が子供から見捨てられながらも、それを受け入れ「子離れ」する話が「3」なのであると。
では「4」とは何なのか? それは子供を育てるという生物学的な使命を終えた「元親たち」が人生100年時代において、その先をどう生きていくべきなのか? その入り口に立った姿を描いた作品なんだと思うのです。
その2へ続く