「アンダー・ザ・シルバーレイク」は、70年代生まれの男たちへの鎮魂歌 ─その2

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『一体この映画は何を撮っているのか?』

今作はこれまでのデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督作品と比較すると、明らかに不可解で不明瞭。無駄も多く、チープに感じられます。しかもそれが140分もの間、観る人にとっては耐えがたく、ダラダラと続く。しかし『アメリカン・スリープオーバー』では群像劇として綿密な構成をまとめ上げた人です。能力がない訳じゃない。

今作は映画宣伝サイトなどではノワール(退廃的な犯罪映画)、あるいはサスペンス映画と定義されていますが、僕が考えるに本質的な部分は違う。これは監督のこれまでの半生を詰め込み、言葉は汚いですが、それを壮大な『ゲロ』として吐き散らかした、内面吐露の映画です。その吐きっぷりのすさまじさ、そして何よりそこに漂う『情けなさ』に同時代の僕は深く共感しましたし、ラストシーンでは涙ぐんでさえしまいました。

ラストで全てを失う、主人公サム。
Under the Silver Lake (2018) GAGA

アンドリュー・ガー・フィールド演じる主人公の名前はサムですが、これはサミュエルの短縮形であり、西洋における「男性」を表す言葉です。中でも有名なのがアメリカ合衆国を擬人化した「アンクル・サム」でしょう。つまり監督は広く一般的な「男」という意味でサムという名前を選択した。これは本作が「僕、そして同世代の男たち」の物語だよ。そういうことの宣言なのだと思います

『リアリティの無さ』

この映画のストーリーラインを物凄く簡単にまとめると、主人公サムには2つの解決しなければならない問題が予め設定されています。それは、

  1. 一目惚れしたものの、一晩で失踪したサラを探すこと。
  2. 5日間の期限内に滞納した家賃分のお金を集めること。そうしないと家から追い出されてしまう。

しかし不思議な事に彼は2番目の家賃を納めることに対して、全く努力しようとしません。そればかりか、そもそも家賃の払えないような暮らしぶりには見えない。車はフォードのマスタングで、朝から晩までビールを飲み散らかす。加えて僕も軽く音楽をたしなむので分かるんですが、GibosonやFenderの高価なギターやベース、アンプを何台も所有しています。あの中のどれか一本を売るだけでも充分に1ヶ月分の家賃になる筈なんです。つまり一番始めの部分からして現実的整合性が破綻している。

サムは高価なブランド物のギターを爪弾き、
昼間からビールを飲み続ける。
Under the Silver Lake (2018) GAGA

この映画を観る際、皆さんはどこまでが現実で、どこからがサムの妄想なのかと考えると思いますが、僕はそこに意味はないと思っています。なぜならこの映画は様々な要素が混じり合って吐き出された『ゲロ』なのだから……。

むしろここで重要なのは物質的には裕福でも、精神的には充たされることのないサムの内面世界であり、これは僕ら70年代の男性に世界的に共通する事柄だと思います。僕らの両親は団塊世代と呼ばれ、多かれ少なかれ、政治の季節に身を投じるか、あるいはそれらの息吹、すなわち自分たちの力で世界は変えられると一度は信じていた世代です。

しかし彼らは学生運動の敗北を機にスーツを身を纏うと180度方向転換して、がむしゃらに働きました。昔あった広告に「黄色ト 黒ハ 勇気ノ シルシ。24時間、戦エマスカ」なんてものまであったんです。24時間働くんです。彼らにこき使われた僕も就職1年目では2日間、家に帰してもらえず、気づくと椅子の上で気絶していたなんてこともありました。

三共(1989)「リゲイン」

彼ら団塊の世代は色々とあったものの退職金や年金受給で何とか「最後=死」まで逃げ切れそうな世代です。戦後復興の息吹を感じながら夢を見て社会を生き、楽しく老後を営んで死ぬ。こう統括すると失礼かもしれませんが「楽しくやった世代」だと思います。

その子どもたち、すなわち団塊ジュニア世代の僕らはどうか? ある意味、彼ら以上に人生の前半戦は充たされていました。何より物質的に充足し、電話はダイヤル式からプッシュホン、社会人デビューした頃には携帯電話が普及し始め、クーラーやテレビは1家に1台から、1人1台になりました。

今現在、社会における貧困問題が叫ばれていますが、一億総中流社会だった僕らの子供の頃は世界的に見ても最も貧富の差が少なかった時代でしょう。そういう意味では幸せでした。

『僕らにとって、TVゲームの世界こそが冒険の舞台』

そのような中、最も革新的だったのがTVゲームの登場だと思います。まさに「遊ぶ」の概念がこれでガラッと変わりました。ファミコンが世に出た時、僕らはちょうど小学生。まさにその衝撃に直撃で打ち抜かれた世代です。さらに凄いのが次の機種であったスーパーファミコンでした。中でも本作中でプレイされる「マリオ・ブラザーズ」の進化版「スーパー・マリオ・ブラザーズ」に皆が熱狂しました。

けれどおかしいと思いませんか? ゲームはその後も進化を続け、PlayStationやニンテンドーDSなど様々な機種が出続けています。けれどもサムと彼の友だちの2人は古くさいスーパーファミコンで今も相変わらずスーパー・マリオをやり続けている。

これは僕ら世代にとってのゲーム機(言い換えるなら青春)とはスーパーファミコンであり、サムはいまだにそこに囚われ続けている=本当の意味で大人になっていない or 大人になりたくない。そういうことのメタファーなのだと思います

いつまでたってもスーパーファミコンから離れられない、
大きな子供たち=僕ら。
Under the Silver Lake (2018) GAGA

戦後復興の熱気も、学生運動も経験せず、親たちの稼いだお金に甘えてゲーム空間で戯れ続けた僕ら。スーパーマリオをプレイすれば分かりますが、その魅力は土管を潜るといきなり地中世界や海底世界が現れ、次のシーンでは雲の上にすっ飛んでいく。

本作内において、洞窟を抜けると唐突にエジプト王家の墓が出てきて、さらにその先には現代的なシェルターが建造されている。地元の普通の山に登るとなぜかそこに奇っ怪なインディアンの小屋が建っているなどの「ワープ感」はまさにスーパーマリオそのものです。

『オカルトにもハマった僕ら』

加えて僕らはオカルトも大好きでした。若い人には笑われるかもしれませんが、1999年に世界は滅びるという「ノストラダムスの大予言」を小学生の頃は皆が多かれ少なかれ信じていました。UFOや未確認生物を扱ったTVの特番番組も目白押しでしたし、本作にも描かれた様々な陰謀論に関する本も多くあって、学校の図書室の一角を占めていました。

そんなゲームや妄想の中で僕らは冒険を続け、今でも多くない人がそれに囚われ続けています。いみじくもサムの友人がゲームをしながら呟きます。

ある世代の男は、誰でもビデオゲームや暗号や宇宙人に夢中だ。でも100年くらい前はバカな奴が森をさまよって、岩の下とかでクールな新しいものを見つけた。けど今はそうじゃない。神秘や謎はどこへ消えた? 不可解さが欲しいよ。だって今はないから……。

Under the Silver Lake (2018) GAGA
適度に裕福だからこそ目的も持たず、ただ流されていく。
Under the Silver Lake (2018) GAGA
Under the Silver Lake (2018) GAGA

これは僕ら世代の男たちの嘘偽りない心の叫びだと思います。そして相変わらず冒険する世界を見つけられず、いまだにゲーム世界に引きこもりを続けている。彼らの姿は僕から見れば本当にリアルでした。情けない? 確かにそうかもしれない。でもね、そう生きるしかなかったんですよ……。

監督はそんな僕ら世代の男たちの気持ちを『ゲロ』として本作で思いっきりぶちまけてくれました。そして僕はその姿勢に心底感動した。確かに一般的な意味での完成度とはほど遠い作品です。けれどその未成熟で、チープで、情けなさこそが激しく胸を打つんです

その3へ続く

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