『喪失とその先を描き続ける作家、デヴィッド・ロバート・ミッチェル』
21世紀の「スタンド・バイ・ミー」と呼ぶべき傑作、「アメリカン・スリープオーバー」に続き、「イット・フォローズ」の大ヒットで監督としての地位を確立したデヴィッド・ロバート・ミッチェル。彼が己の思いの丈を全て詰め込んだであろう作品が「アンダー・ザ・シルバー・レイク」です。
けれど2018年当時、僕は仕事が忙しすぎたのに加え、映画評を見ていると意外な程に評判が悪い。実際本作はカンヌ映画祭に出品されたものの評価が思わしくなく、その結果、アメリカでは公開延期となり、日本から遅れること、約1年後にようやく上映されています。
さらに140分という結構な長さもあった為、尻込みしてしまい、その間に上映が終わってしまいました。それから2年近くが経ち、今回のコロナ渦の暇な状況もあって、ようやく観ることができました。結果、個人的には大満足のこれまた傑作だと思います。
まず処女作の「アメリカン・スリープオーバー」から順を追って見ていきましょう。ここでは群像劇の手法を取り、それぞれの若者(高校生ら)が、彼らなりそれぞれの不器用なやり方で「その先=大人」へなろうと足掻く様(キスやSEXをしようとする)を一夜のスリープオーバー(お泊まり会)に託して描いています。鑑賞後に残る余韻は鮮やかであり、生きることの素晴らしさ、そして悲しさが分かちがたく結びついています。
この作品で描かれたものは『少年&少女時代との別離の予感』であり、だからこそ全体に淡い悲しみが漂っているのでしょう。それらをことさらドラマチックにするでなく、淡々と描く筆致は見事です。特に終盤で主人公の少女マギーとスティーヴンがこの先でキスしようと誓い合って、ウォータースライダーで2人一緒に落ちていくあの名シーンには鳥肌が立ちました。
ただ、この映画が最初に挙げた「スタンド・バイ・ミー」と異なるのは、「スタンド・バイ・ミー」では主人公ら4人は旅を通して通過儀礼を終え、最終的に「少年期を終えてしまう」んですよね。だから家に帰り着いた時、町がちっぽけに見えてしまう。そしてラストでは主人公が二児の父となり、キャンプに出かけるという象徴的なシーンで終わります。
帰り道、いろんな思いが頭をよぎったが、みな黙ってた。ひと晩歩いて町に戻ったのは日曜日の朝5時、労働者の日の前日だった。たった2日の旅だったが町が小さく、違って見えた。
中略
「なぁ、俺は一生この町にいるのかな?」
「いいや、君なら何だってできるさ」
「そうだな……。なぁ、握手してくれよ」
中略
もうあの12歳の時のような友だちは、二度とできやしないだろう……。
神よ、それとも他に誰かいるとでもおっしゃるのですか。
Stand By Me (1986) Columbia Pictures Industries, Inc.
これらは島田裕巳さんの名著『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方』に詳しく書かれていますので良ければご一読ください。
一方、「アメリカン・スリープオーバー」のマギーはスティーブンとのキスを「好きよ、でも今夜じゃないの」と最後に優しく突き返すことで、束の間の青春期、つまりはもう少しの間、子供でいられる時間を引き延ばすことに成功します。キスをしない=まだSEXをしないということです。つまりまだ子供でいたいの、そういうこと。
デヴィッド・ロバート・ミッチェルのこれまでの3作ではいずれもSEXが大きな鍵となっています。それはどの作品でも『SEXをする=何かを喪失して、新たな局面に漕ぎ出していく』ことのメタファーとなっているからです。
『少年期から青年期へと舞台を移した、イット・フォローズ』
そして大ヒットした2作目の「イット・フォローズ」です。僕自身は評判だったこれをまず観た結果、とても良かったので1作目に遡りました。そして思ったのはこの監督は基本的に同じテーマを描き続けているということ。それは先にも述べた『喪失と、その先にあるもの』です。
「イット・フォローズ」はホラー映画という触れ込みではあるものの、実際には「アメリカン・スリープオーバー2」とでも呼ぶべき作品です。ここでの主人公たちは前作より少し年齢が上であり、もう社会へ出る寸前。SEXだって覚えている。つまり少年期から青年期へと舞台を移しているのです。主人公のジェイはいわば成長したマギー。彼女は恋人であるヒューと初めてのSEXをした後、こんな言葉を呟きます。
ずっと夢見てた。大人になってデートしたりドライブできる日を。イケてるカレシと手をつないでラジオを聴きながら、キレイな道を車で走るの……。きっと北の方ね。紅葉が始まってる。行き先は問題じゃなくて自由が欲しかった……。
けど、大人になった今、どこにいけばいいの?
It Follows (2016) Pony Canyon
「僕らはどこへ行けばいいのか?」そして、「僕らはやがてどこへ辿り着くのか?」デヴィッド・ロバート・ミッチェルはずっとこの問いかけを己の中に抱え続けている、哲学者のような作家です。けれどそんなものに明確な答えなんてありやしない。人はただ、とにかく歩き続けるしかない。「イット・フォローズ」のラストシーンも背後から迫り来る「死=It(イット)」から逃れるにはただ前を見て歩き続けるんだという、作者のメッセージを象徴するようなカットとなっています。
少年期、そして青年期へとステージを移し、成長と喪失を描いてきた監督は遂に「アンダー・ザ・シルバーレイク」において、何者にもなれないまま人生の曲がり角を通り過ぎてしまった男がこの先どうするかも決められず、それでも次のステージへと流されていく様を見事に描き切りました。
そこで描かれていることは1973年生まれの僕にはことさらリアルでした。監督自身も1974年生まれ。これはまさに僕らの世代の物語なんです。他の年代の方が観ても充分に面白い作品だとは思いますが、同世代だからこそ深く共感し、理解できることがある。その視点で今作を読み解いていきたいと思います。
その2へ続く