『勝利したデル・トロと、その代償』
「シェイプ・オブ・ウォーター」の着想は、彼が6歳時にテレビで観た『大アマゾンの半魚人』という映画から得たそうです。その中で人間の女性に恋い焦がれながらも拒絶され、追い払われた半魚人を可哀想だと思い、当時のデル・トロは半魚人の彼が人間の女性とデートする絵本を自分で描いていたのだそうです。この辺りのくだりは映画評論家、町山智浩さんが自身のサイト、映画その他無駄話の中で詳細に述べられています。
デル・トロはその後、大人になってからもずっと、この半魚人にとってのハッピーエンドを模索し続けました。子どもの頃から温め続けた「怪獣が幸せになる話」とは、その2で述べた、デル・トロが「シェイプ・オブ・ウォーター」で挑んだ「社会」との戦い、すなわち「怪獣映画」を世に認めさせることと密接にリンクしています。
そして彼は戦いに勝ち、アカデミー受賞作家という肩書きを手に入れます。しかし、その為に作品には幾つかの「チューニング」が施されました。
- その当時、顕在化していた人種や性的差別にメッセージを投げかけるような作品とすること。
- おとぎ話とは言っても、パンズ・ラビリンスと異なり、大人の成熟した女性を主人公とすることで、幼児向けの怪獣映画だと捉えさせないこと。
- 怪獣、すなわち半魚人はグロテスクでなく、性的にも魅力ある造形とすること。ここはデル・トロがこだわり抜いた部分で、特に重要なのが「ヒップ」だったそうです。妻や娘、さらに彼女らの友だちにまで「この尻はセクシーか?」と聞いてまわり、微調整を繰り返したとあります。腕やふくらはぎも締まった筋肉で覆われ、体型的には女性が好きそうな細マッチョです。加えてこの半魚人ってハッキリ言って、イケメンですよね。
- 2と3の流れからも当然のこととして、彼らのセックスを描くこと。
『デル・トロはどこへ消えた?』
つまりこの作品は怪獣映画のメタファーとしてのラブロマンス映画だということです。この呼び方が適切かどうか分かりませんが、ある種の「擬態」をすることによって、怪獣映画を世に認めさせようとした、そう言えると思います。大人が子どもに薬を呑ませるため、甘い味付けを施すように……。
これは作家として、大いなる挑戦であると同時にデル・トロ本人のパーソナリティーにはないものを「無理して」詰め込んだとも言えます。これらの結果によって、その1で述べた、作者自身が己を投影できるキャラクターがストーリーのメインラインにいない、という事態が起こったのだと思います。
「パンズ・ラビリンス」のオフェリアは「シェイプ・オブ・ウォーター」ではセックスを覚えた成熟した女性に、モンスターも性的魅力を兼ね備えたイケメンに。これまでは脆く、時に醜く、不遇なる存在に己を投影してきたデル・トロにとって、彼らを称えることはできても、そこに自己を重ねることはできないでしょう。
しかし作者の投影がない作品などあり得ない、僕はそう思います。では、デル・トロ本人はどのキャラクターに姿を変え、物語の中に存在していたのでしょう? 答えは半魚人の逃亡を手助けしたロシアのスパイ、ホフステトラーです。
『誰がモンスターを助け、解き放つのか?』
上記を遂行したのはもちろんイライザとそれを手助けしたジャイルズです。しかし、彼ら以上に己の身を危険にさらしてまで2人をサポートし、その結果、命を落とすのがホフステトラーです。彼はイライザと同様にモンスターに想いを寄せています。
実際、劇中でモンスターのことを「彼」と呼んで人間同様に扱い、ストリックランドに対しては「あの複雑で美しいものを殺したくない!」と叫んでいます。彼はイライザと同様にモンスターを醜いのではなく、美しい存在だと思っているのです。
彼がイライザと半魚人の蜜月を見てしまうシーン、DVDだと35分過ぎからですね。半魚人の元へ食べ物を差し入れに来た彼。しかしイライザとモンスターが「いちゃついている」のを発見した時の切ない表情、そこに宿るのは驚き以上に悲しみであり、恋人の浮気現場を見た人のそれです。
本当は彼自身がモンスターを救い出し、どこかへ連れて行きたい。それが叶わないからイライザを助け、代わりにモンスターを解放してもらう。これは本当はストレートに怪獣視点で映画が撮りたかったにも関わらず、人間の目から見た、ラブロマンス映画へと擬態せざるをえなかったデル・トロ本人の気持ちと同じではないでしょうか。ちなみにホフステトラーは外見もフォーマルなデル・トロといった感じで2人はそっくりですよね。わざと似させていたのではないかと勘ぐってしまいます。
『秘められし、デル・トロの欲望』
だからこそホフステトラーを主人公として、この映画を観直すと感じる熱量は途端に上がります。「パンズ・ラビリンス」ではビダル大尉が主人公オフェリアに執拗に迫ってきますが、本作ではイライザ以上にストリックランドにつけ狙われるのがホフステトラーです。
また彼はストリックランドだけでなく、スパイの上司にも嘘をつき、騙し続けなければならない。つまりこの映画の中で唯一、敵と味方、両方と戦わなければならない存在なのです。これは映画作成中のデル・トロの気持ちと全くのイコールだと思います。
だからこそ半魚人が孤独であると同様に彼もまた孤独であり、絶えずストレスにさらされている。一例としてDVDだと1時間27分から続く、自分の裏切りに気づいた上司と殺し屋に囲まれるシーンは秀逸です。真新しいシャツにネクタイをきちんと締め、靴下に加え、ピカピカの靴まで履いているのに、ズボンだけがなく、下着が丸見えになっている。
このあまりに情けないカットはまさにこの時の彼の心象を見事に表現しています。取り繕ってはいても、チ○コを鷲掴みにされている(命を握られている)感じ。
挙げ句の果て、彼らに撃たれるばかりか、最後は半魚人と同様、ストリックランドから電磁棒(牛追い棒)で電流を流され息絶えるのです。その姿には自分もまたモンスターであり、同じように扱われたいというデル・トロの屈折した欲望を感じます。
なぜならカトリック教徒である彼にとって、鞭打たれる存在とはイエス・キリストその者であり、よって虐待の限りを受ける半魚人とは神が化身し、別の姿となった存在だとも言えるのです。だからこそ半魚人はあれほどストリックランドに電磁棒で打たれ続け、終盤で彼の口から「お前は神なのか?」の言葉が発せられるのです。
『 2人の行く末は?』
この映画はハッピーエンドなのでしょうか? 己自身も半魚人となり、社会から完全なアウトサイダーとなったイライザがこれから先、幸せな人生を歩めるかどうかなど、分かりっこありません。それでもささやかなハッピーエンドはありました。
水中に消えた2人を見送ったジャイルズとゼルダ、最後に2人はまるで恋人のように腕を組んでいます。これはセクシャリティを越えた新しい「愛」の始まりなのだと思いたいです。なぜなら、彼らの背中にはこの映画で「愛を象徴する赤いライト」が優しく降り注いでいるのですから。