『ローカルとグローバルの対立』
本作においては主人公ダニーと恋人クリスチャンの駆け引きが「ローカル=土着的なホルガ村の慣習」と「グローバル=世界的で現代的な価値観」の対立に姿を変えて展開されます。これはその1で述べた、ナショナリズムとグローバリズムの確執に重なります。では、なぜ一見正しいと思われるグローバリズムが否定され、「ナショナリズム=ローカリズム」が台頭してくるのか?
今作は宗教映画の側面もあります。そんな中、ホルガ村のことをカルト宗教となぞらえて言説する人もいるのでしょうが、それは根本的に間違っています。なぜなら今の世界のスタンダードであるキリスト教的価値観は遙か昔のユダヤや北欧においてはそれこそ薄気味悪いカルト宗教そのものに他ならなかったからです。
例えばホルガ村の近親相姦を防ぎ、外から子種を持ってくるシステムも、年齢を経て、生産性を失った老人をしかるべき余生を送らせた後に72歳で崖から飛び下りさせて殺す(アッテストゥパン)のも一定の理には適っています。
個人的な話ですが僕の父は仕事を愛し、それなりの企業で代表も務めた人物でした。その彼が70歳を過ぎて言うのはとにかく綺麗に死にたい、周りに迷惑を掛けたくない、つまり分際のある死に方をしたいということです。
延命治療は絶対にやるなと釘を刺されていますし、彼の心の中には自分がもし動けなくなったら安楽死させて欲しいという秘かな願望があるはずです。父が恐れていることは人間としての尊厳が維持できなくなっても「生かされて」しまうことなのです。
これは全世界中の多くの老人が抱く望みだと思いますが現代社会において「積極的安楽死」はスイスなどを除いて、ほとんどの国では認められていません。つまり現代的価値観は生きることに絶望し、死を望むた人々に救済を与えることはできないということ。そんな人たちにとってホルガ村は天国のはずです。
『家族という呪い』
アリ・アスター監督が『ヘレディタリー/継承』から今作まで変わらず描き続けているもの。それが「呪い」です。これは言葉を変えると逃れられない「運命」のようなものであり、そして2作ともにそれは「家族」の形を取りました。僕らは現在、この社会において様々な職業を己の意志で選択でき、世界中のどこへでも旅することができます。
けれど現代人が唯一といっていいぐらい選択のできないもの。それが「親」であり「家族」であり「血族」です。つまりアリ・アスター監督は今作でダニーの妹の精神的疾患を「呪い」として捉えているのではなく。家族の存在そのものが「呪い」であると考えているのだと思います。妹はその象徴に過ぎません。
考えれば考えるほど、家族とは摩訶不思議な存在です。それは最小単位の「ローカル」なものであり、言い方を変えれば家族こそが逃れられない「運命」であると言える。けれど同時に家族こそが「一番信頼できる共同体」でもあるはずです。血は水よりも濃いということわざ通り、家族の絆は強力に人を呪縛します。
それがプラスに与えられた人は幸せです。その人は人間とは愛し愛される存在なのだと確信を持てるし、それゆえ他人を信用しようとします。けれど家族の呪縛をマイナスに受け取ってしまったダニーのような人間はどうでしょう。彼女の場合は一方的な妹の暴力によって、最も信頼できる家族という共同体を失い、独りぼっちになってしまったのです。
『社会は常に分断を強いてくる』
ダニーは依存体質の人間なのに「家族=最も依存できる共同体」を失ってしまいました。そんな彼女が最も恐れていること。それは自分がさらに別の共同体からも放逐されることです。だからこそウザがられているのが分かっているのにクリスチャンたちの旅行についていく。
逆に彼女が最も望むこと。それは他者が己を理解してくれ、その結果、無条件に包含してくれること。新たな共同体を手に入れ、その中で癒やされること。しかしグローバリズムが支配する現代社会ではその癒やしは彼女に与えられません。代わりにそれを差し出したのはホルガ村の女性たちでした。
彼女らは全員がダニーの悲しみに「共感」し、その結果ダニーは初めて感情の限りに皆の前で泣くことができました。逆に言えば現代社会ではどんなに辛い事があっても、衆目の前では泣くことすら許されなくなってしまっているのです。なぜなら現代は良くも悪くも「個」という壁の中に自我を閉じ込め、その壁が高く強固なほど、良しとされる時代だからです。
つまり現代社会とは「個」を尊重するのと同時に「個」を「集合体」から切り離す運動を自立的に行うということ。ここで取り上げたいのが去年読んだ政治関係の本の中で最も面白く、示唆に富んでいた渡瀬裕哉さん著の『なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか』です。彼はこの中で「分断」は民主主義の必然であると述べています。
『人は分断を求めるくせに、それに耐えられない』
私はあなたと違う「私だけ」の唯一なる存在なんだ。民主主義が成熟すればするほど、人は己の権利を主張できるのと引き換えに、どんどん「孤独」になっていきます。けれどそんな簡単に人は「孤独」に堪えられない。誰かに依存していたい。SNSの爆発的な蔓延は無意識に人類が生み出したそれらの解消策のひとつなのでしょう。
『ミッドサマー』とはアリ・アスター監督個人の失恋というトラウマの解消の先に、彼自身が抱えている「無条件に人と繫がりあいたい」という切実な願望と、それを阻止しようとする現代的価値観の対立が描かれている。だからこそあの壮絶なラストシーン、生贄に捧げられた9人が焼かれる様を見たダニーは満面の笑みを浮かべるのです。あれは忘我の境地で得た至福の笑み。あの時、彼女は「救済」されたと同時に現代的な「個」を失ったのです。
僕がこの映画はすげぇよ……と唸ったのがまさにこの9人が焼かれるシーンでした。特に生贄となったホルガ村の2人の男がお互いを見合って笑みを浮かべるシーン。あれもまた至福の笑みであり、神の時代から続く、神話という「大いなる物語」に自分たちは包まれている。その「包まれた」という感覚が無意識の笑みを浮かばせたのでしょう。そしてそれと引き換えに彼らもまた「個」を消失していく。あの最後の絶叫は焼かれていく「人間の理性の叫び」に他なりません。
このラストは現代的価値観からすれば「明らかに」間違っています。けれどその1でも述べたように人は必ずしも「正しさ」では救われない。『ミッドサマー』とは今まさに世界各地で顕在化する様々な分断問題と、それを生みだした理想主義の欺瞞と限界、さらには人間という存在の「業」の深さまで描ききった、超弩級な作品だったと思います。