『眼差しで、語る』
前にも少し触れましたが、作者であるジョージ・ミラーはこの作品を、英語が理解できない国の人が翻訳字幕なしで観ても楽しめる映画にしたかったと語ったそうですが、それが象徴的に分かる箇所として「目」の演技があります。
日本のことわざに「目は口ほどに物を言う」というのがあります。日本人を含む、東南アジアの人々は昔から相手の「目」を見ることで、その奥に見え隠れする感情を読み取ろうとしてきました。だからこそ我々は無意識に会話の最中、チラチラと相手の目元を確認しますし、隠し事がある時は目を逸らします。
一方、欧米圏の人々は真逆で、彼らは会話の最中に相手の口元を観察しています。彼らの感情は口の周りの表情で表われるのです。
だから東南アジアの人々はよくマスクをしますが、欧米の人はこれを奇異に感じます。口元が見えず、話している相手が何を考えているのか分からないからです。一方、欧米圏の人はサングラスをしますがこれに我々は違和感を感じます。目元が見えず、何を考えているのか分からないからです。
僕自身これまでに幾つかの映画を観て、強く感じたこととして、仮にルーツはアジア人であってもアメリカで育ち、アメリカの文化に慣れ親しんだアジア系アメリカ人の演技を見ると、普通の日本人ではあり得ないぐらいに口角が上がったり、広がったりします。少なくとも僕には絶対真似できません。
「マッドマックス 怒りのデスロード」は異常と言っていいぐらい、セリフの少ない映画です。僕も脚本を見てびっくりしました。各キャラクターのしゃべる回数も少なければ、話す言葉数自体も非常に少ないです。
また会話がほとんどないので、いわゆる欧米的な口元の演技もありません。というか、ジョージ・ミラーは意図してそれを押さえようとしたのでしょう。逆に強く記憶に残るのが「目」の演技で、特に印象的なのがフュリオサを演じたシャーリーズ・セロンです。
例えばイワオニ族が待ち受ける谷へ入っていくシーン、DVDだと49分ぐらいからですね。彼女がオイルを額に刷り込み、己を奮い立たせようとバックミラーを見た瞬間の表情、黒い額の下に緑の瞳が美しく瞬き、彼女の意志の強さと気高さを感じさせます。しかし不安によってその瞳は徐々に揺らいでいくのです。
また終盤の1時間37分過ぎ、己の腹部を刺された後、窓の向こうに見えた、連れ去られていくトーストを見た時の痛みをこらえ、溢れた涙の向こうに見える不屈の眼差し。1時間40分からの己の死を覚悟し、皆を託そうとマックスに向ける切ない表情も忘れられません。そしてそれら全てのシーンでは一言もセリフが発せられることはないのです。
『ゆだねる、勇気』
マックスも同様です。劇中を通じて彼は戦闘の時以外、相手とは極力、目を合わせようとしません。フュリオサの問いかけにも少し頷くだけで言葉を返さなかったり、しゃべるときもボソボソ呟くようで、ほとんど口元が動きません。これはその3でも述べたように彼が「精神疾患」を抱えているからゆえのそれを表現した演技設計なのでしょう。
この「目」の演技が最高潮に至るのが終盤のエンディング部です。フュリオサに己の血を与えたマックスはその時始めて「正面」から彼女の顔を見つめます。映画全体をチェックすると分かりますが、このシーンまで彼らは常に横に並んでいたりなど、面と向かってお互いの正面に立つことはありませんでした。ここでもマックスは始めはキョドキョドしていて、まともに彼女の顔を見ることができません。しかしその後、意を決し、その顔をしっかり見つめると話しかけます。
「Max. My name is Max. That’s my name」この映画は見方を変えると「マックスが正面からフュリオサの目を見つめて話せるようになる」=「彼の精神疾患が治癒するまで」を描いた映画でもあるのです。
その後の別れのシーン、1時間52分以降については何も言いません。ただそこで繰り返される、マックスとフュリオサ、ふたりの「目の会話」を愉しんでください。言葉がないからこそ、観る人に「会話の内容」をどう解釈するかはゆだねられています。
それにしてもマックスが己の名前をフュリオサに教えてから、エンドロールが流れるまでの約5分近くの間、主人公らには一切のセリフがありません。こんな映画って他にありますか?
2003年に制作発表されてから2015年の公開に至るまで10年以上の歳月がありました。ジョージ・ミラーにとっては非常に苦しんだ作品です。それだけに込めた思いもあったでしょう。なのに何も言わない。最後は観る人に全てをゆだねる。それは映画を観てくれる人々に対する、深い「信頼」がなければできません。物凄く「勇気」のある人です。
『なぜ、フュリオサはシャーリーズ・セロンだったのか?』
最後にこれを書いて終わりにしたいと思います。ちなみにこれは完全な僕の憶測であり、妄想です。その点はご了承ください。シャーリーズ・セロンは南アフリカ出身で、父と母の3人家族でした。この父親が強度の「アルコール依存症」であり、「性依存症」であったそうです。母と彼女は常に父親からの激しい暴力に苛まれる日々を送り続けました。
そして悲劇は起きます。彼女が15歳だったある日、酔っ払って帰宅した父は彼女ら2人に銃を向け、あろうことか発砲を始めたのです。そのあまりの振る舞いに娘の命の危険を感じた母親が彼の銃を奪い、撃ち殺しました。シャーリーズはその一部始終を見ていたのです。
結果、母親は正当防衛が認められましたが、彼女にとって、そのトラウマは強烈に残ったことでしょう。それが原因かどうかは分かりませんが、彼女は現在まで結婚せず、2人の血の繋がらない子供を養子として育て続けています。ジョージ・ミラーがフュリオサ役に彼女を起用した真の理由とは、演技力は無論のこと、これであったのだと思います。
彼女こそ、フュリオサというキャラクターに血と肉を与えられる存在だったのです。そう考えるとイモータン・ジョーはシャーリーズにとって、過去に虐待を受け続けた父親の亡霊のような存在です。彼女は劇中で己の手でそれを打ち倒します。その過去の亡霊と対峙し、葬り去る際にジョージ・ミラーはこの様なセリフを彼女に与えました。
「Remember Me?」
「神話」とはある「共同体」において、そのグループの「成り立ち」を語ることによって、その共同体の基盤となり、そのグループを支える「物語」のことです。ジョージ・ミラーは「全世界」をひとつの「共同体」と捉え、映画という虚構の世界で、今ある現実を再構築し、その中で僕らの「身代わりとなってくれる」キャラクターたちに過酷な世界を駆け抜けさせることで、「これから」をどう生きていくべきかの「神話」を描いてくれました。
こんな作品をリアルタイムで観れた僕は本当に幸せです。この作品を創ってくれたスタッフ全てに感謝の気持ちを捧げます。つたない僕のブログですが、初めに取り上げる作品はこれをおいて他にありませんでした。