「CURE キュア」が暴く、人間の憎悪 ─ その4【完】

『あんたの話を聞かせてよ』

間宮邦彦はそう言って、被害者の心の隙間に入り込もうとします。話すのは俺じゃない、あんただ。そうやって人が普段心の奥底に隠している憎悪をあぶりだし、解放させ、殺人へと導いていく。憎悪は「夫婦(千葉の海岸沿いに住む教師の夫と妻)」「仕事の同僚(交番の巡査たち)」「男に抑圧された女(女性内科医)」など様々な隙間に潜んでいることが提示されていきます。

間宮の初登場シーン。どこまでも続く水平線と地平線で
空虚でカラッポな彼を象徴的に表現しています。
CURE (1997) 松竹富士

「思いだせ」間宮は言います。何を? 憎悪です。思い出すということは被害者にとって「救済=CURE」されると同時に殺人者へと変貌を遂げることであり、この社会ではもう真っ当に暮らしてはいけません。

憎悪の源はストレスです。人は生まれたと同時に様々なストレスにさらされていく。それは多分に他者との軋轢から生じるもの。なぜなら「社会」とは「人が集まって生活を営む集団」のことを指すからです。

CURE (1997) 松竹富士

人間は生物としてこの地球上を生き抜く生存戦略において「社会」を構築することを選びました。草食獣の多くは群れを作りますし、肉食獣では狼などがそうです。けれど「群れ」と「社会」は似てはいるものの根本的に違う。群れは単に生き残る可能性を高める目的で構成された集合体です。

人間も初めはそうだったのでしょう。しかし「社会」とは「群れ」以上に高度な集合体であり、思考や感情、言語を共有し、生活を共にする個別的集団のことです。最も分かりやすい例が国家です。

そこでは①国籍、②言語、③道徳観、④建国の神話などによる同胞意識が存在し、それが集団としての結束を強化します。よって「隣人を憎む」というのは社会にとって基本的に不都合なことであり、だからこそ、それを抑制しようとします

『あんた誰だ?』

間宮は上記の質問を様々な人々に問いかけ、皆はそれに対する回答として「社会における地位や職種」を答えます。つまり僕らは潜在的に「社会内での立ち位置」こそが「個人」だと認識している訳です。映画内で最もそれを分かりやすく表現した屈指の名シーンが以下となります。DVDなら1時間22分辺りからです。

「社会」という組織と、
そこからはみ出てしまった2人の対峙を象徴するカット。
CURE (1997) 松竹富士

「あんた誰だ?」

「本部長の藤原と言いますが。どうです間宮さん、あなた今なぜこんな所にいるのか分かってらっしゃいますか? 何じゃないでしょ、ちゃんと答えなさい」

「何が?」

〜中略〜

「間宮さん、私の質問に答えなさい」

「あんた誰だ?」

「本部長の藤原です」

「誰?」

「おい、ふざけてるのか!」

〜中略〜

いいか、もう一度聞くぞ。本部長の藤原、あんたは誰だ?

君、私の何が聞きたいんだ……

それは自分で考えろ

CURE (1997) 松竹富士

『CURE=治療されるべき病とは?』

タイトルに治療とある以上、癒やされるべき病(やまい)があります。では本作で描かれる病とは何か? これまでの読み解きから考えると「人間として規定される」、これに他ならないでしょう。人は初めから「人間」として生まれてくるのではありません。集団で生活し、集団を上手く維持するために言語や道徳、慣習や法律、知識、職業技能などを「教育」させられることで「人間」になっていくのです

これの一通りの到達点が2020年現在の日本では20歳(2022年より18歳へ)であり、それまでは「未成年」と定義されます。要はその歳までは人間として不完全と言うことであり、社会は20年かけて、何者でもない生命を「人間」という鋳型にはめ込んでいこうとします。

×とは失格を表す記号。つまりは人間を失格せよ、
そのような暗示なのではないでしょうか?
CURE (1997) 松竹富士

けれど気づかないうちに我々はそこで多大なストレスを受けている。その源は人間教育全ての根幹である「集団生活」そのもの。つまり人間が人間であること自体が多大なストレスであり、『CURE=治療』されるべき病とは我々が人間を続けていること、つまり本作で黒沢さんは「人間であることこそが病(やまい)である」と述べているのです

『思い出したか?』

「思い出したか? 全部……思い出したか?」最後に高部は間宮にそう問いかけます。彼は頷き返します。会話の内容を聞いても分かるようにこの時、間宮は完全に記憶を取り戻しています。そして頷いた彼を高部は「そうか……これでお前も終わりだ」そう言ってあっけなく撃ち殺します。

遂に「娘=高部」は「青髯=間宮」を打ち倒す。
CURE (1997) 松竹富士

これにより「伝道者」の役割は間宮から高部へと受け継がれます。間宮は劇中で以下のように語っています。

「先生、俺の話聞いてくれる?」

「いいわよ」

前は俺の中にあったものが今、全部外にある。だから先生の中にあるものが俺には見えるんだよね。その代わり、俺自身はカラッポになった……

CURE (1997) 松竹富士

俺の中にあったもの、それはすなわち記憶であり憎悪です。実はこれは小説版『CURE キュア』の中で詳細に語られているのですが間宮は父や母、そして妹など己の血の繋がった者たちを憎んでいます。それの解消のためには彼らを殺すか、もしくは彼らのことを忘れるか、2つの方法がありました。

彼は後者を選びます。だからこその記憶喪失であり、加えて記憶を保持することができないのです。これは文江の若年性アルツハイマーと対を成しています。その1の始めに戻りますが、間宮と文江は「青髯」であり、高部は彼らに狙われる「娘」なのです。

今作では「思い出す」ことは「死」を意味します。
だからこそ他の犠牲者同様、間宮は殺されるのでしょう。
CURE (1997) 松竹富士

『伝道師の向かう先は?』

間宮は記憶喪失になることで『CURE=治療』の力を得ましたが、高部はそれを必要としません。実は黒沢さんは当初、高部も記憶喪失にして、間宮と同様に白里海岸を彷徨わせるエンディングを想定していましたが、より進化した伝道師として、このように記憶を維持しながらも技を使える人間としたそうです。

いずれにせよ「娘」としてただ受動的に社会の与える教育を無自覚に受け取るだけだった高部賢一は「青髯=間宮」から得た力を得て、新たな伝道師として社会に解き放たれます。その手始めに彼はまず、もう一人の「青髯」である妻、文江を殺し、死体を偶像のように仕立て上げます。

グリム版では青髯は殺されれた後、吊されるとあります。
まさにそれをトレースする文江の最後の姿です。
CURE (1997) 松竹富士

これは間宮におけるねじれた猿のミイラと同様、継承の証のようなものなのでしょう。この後、高部は間宮同様「何か」に向かって突き進んでいきます。それを現した小説版ラストを引用して終わりとしましょう。

目をこらすと行く手に黄色い雲が垂れ下がっているのが見える。突風はどうやらその雲の方向から吹き付けてくるようだったが、その雲自体は密集した重い粒子の一団となって動かず、彼方にあるものを隠している。高部にはそれを見通す力が備わっているのか、未知の力がそこから放たれて彼を導いているのか、そしてその先はいったい ──。

しかし、こちら側のそうした思いももはや彼には届くまい。なぜなら、黄色く厚い雲の向こうへとすでに高部賢一の姿は視界から見えなくなり、彼が唯一荒野に残していった足跡さえも、いつのまにかきれいさっぱり消え失せていたからだ。

黒沢清 著(1997)「CURE キュア」徳間文庫
黒沢清 著(1997)「CURE キュア」徳間文庫
映画版ではよく分からなかったことの多くが
小説版では紐解かれています。