「CURE キュア」が暴く、人間の憎悪 ─ その3

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『不安はあんたの中にある』

映画タイトルが『CURE=治療』である以上、当然ながら前提として治されるべき病(やまい)が存在する訳であり、間宮はその治療者です。彼は被害者の中から「憎悪」を抽出し、それを「暴力」として解放させ、治癒へと導いていく。以下は女性の内科医(洞口依子)との会話シーンです。

CURE (1997) 松竹富士

「不安は?」

「不安? なんの不安?」

「結構、落ち着いてるね」

「不安はあんたの方にある……」

中略

「女のくせに、どうして医者になったの?」

「女のくせに?」

「女のくせに、よくそう言われなかった? 言われたよね? 思い出して。その時の気持ちをハッキリと」

「女のくせに……」

「女は男よりも下等な生き物だ。違う? ほら、思い出した? きっと、まだ学生の頃だ。あんた大学の実習で死体解剖したよね? 初めて見た死体、それは男だったろ? 思い出して。初めて見る男の裸だ。あんたはそれをメスで切り刻んだ。どう? 胸がすぅーっとしたんじゃない? しただろ? 思い出せ。あんたは本当は外科医になりたかった。でも、ためらった。それで内科医になった。違う、あんたが本当に望んだのは男を切り刻むことだ」

CURE (1997) 松竹富士
CURE (1997) 松竹富士

ここで憎悪の抽出に大きな役割を果たすのが催眠術であり、今作ではそれに魅せられたメスマーと伯楽陶二郎という謎の2人が登場します。

『メスマー & 伯楽陶二郎とは?』

メスマーですが実在の人物で、間宮の論文にもあるように『動物磁気』を提唱した18世紀ヨーロッパの医師でした。『動物磁気』を簡単に説明すると生物の身体には等しく磁気が流れており、その狂いが病気を引き起こすという考え方です。加えて今作に繋がる重要な事柄として、病(主に精神的なもの)を治療するために『催眠術』を考案したことです

つまり彼は現在における精神医学の祖のような存在だったと言うことですね。けれどここで黒沢さんが描こうとしたことはメスマーの思想性そのもの以上に、それを当時の人々がどう受け取ったのか。そちらであったのではなかろうかと考えます。

これに関してもやはり劇中で挿入される「本」が鍵になるのではないでしょうか。それが高部が間宮の部屋で発見し、画面内でも大写しにされる『パリのメスマー』と『眠りの魔術師メスマー』の2冊です。

CURE (1997) 松竹富士

結構古い本でどちらも入手できなかったので未読ですが、それでもどのような内容かはざっと分かりました。以下は平凡社から発行された『パリのメスマー』の帯文と目次の引用です。

新しき科学か、イカサマか。1778年2月、大革命前夜のパリに、ヴィーンから一人の医者がやってくる。この男、フランツ・アントン・メスマーとは何者か。民衆から貴族までをとりこにした〈動物磁気催眠術〉とはいったい何か。ルソーとは異なる、急進思想のもう一つの鉱脈を発掘する。

 大革命前夜の熱狂―メスメリスムと民衆科学

 メスマー、パリに到着す―メスマー派の活動

 アカデミズムへの挑戦―メスメリスムにおける急進的傾向

 〈原初の調和〉をもとめて―急進的政治理論としてのメスメリスム

 メスマーからユゴーへ―19世紀のメスメリスム

ロバート・ダーントン 著/稲生永 訳(1987)「パリのメスマー 大革命と動物磁気催眠術」平凡社

お次は工作舎から発行の『眠りの魔術師メスマー』の紹介文です。

CURE (1997) 松竹富士

一八世紀なかば、不思議な力を持った一人の少年が誕生した。みずからの力に目覚め、医師となった彼とその「動物磁気療法」は、ウィーン、パリ、そしてベルリンで、熱狂的なブームとスキャンダルの渦を巻き起こしていく。科学者であることを目指す一方で、錬金術の秘法に耽溺したこの不可解な人物こそ、フランツ・アントン・メスマーである。フランス革命やドイツ・ロマン主義運動に巨大な影を落とし、催眠術=メスメリズムにその名を残しながらも、精神医学の正史からは黙殺され続けてきた謎の生涯の全貌が、フランス文学界の異端、チュイリエの手によって、今、はじめてよみがえる。

ジャン・チュイリエ 著/高橋純、高橋百代 訳(1987)「眠りの魔術師メスマー」平凡社

この2作で描かれているであろう事を上記引用に加え、歴史的事実から推測すると「催眠術」は当初は民衆に熱狂的に迎えられるものの、やがて科学界から「オカルト」の烙印を押され、異端として追放されていく様です。

これを日本に置き換えると佐久間が間宮の部屋で発見する本『邪教』に掲載されている伯楽陶二郎と彼が作った「気流の会」にも繋がります。彼らもまた邪教集団として明治政府に迫害されました。これら3冊が意味するのは人間の「精神」を解析しようとした者たちと、「精神」というブラックボックスに手を付けることを良しとしなかった「社会」との対立の歴史です

この本はネット検索しても全くヒットしません。
映画上の虚構の産物なのでしょうか?
CURE (1997) 松竹富士

『蓄音機に封じ込められた声』

メスマーも伯楽もいずれも「精神」という底なしの沼に入り込み、そこで足を絡め取られたのと同時に社会からも排斥され、いずれも不幸な最後を遂げました。そこには紛れもない「怒り」があったことでしょう。

間宮邦彦はその系譜に連なる存在です。つまり彼は姿を変えたメスマー、そして伯楽陶二郎であり、歴史を超えて2人の人間の「憎悪」も継承しているのです。そして彼らの「憎悪」と「CURE=癒やし」の技を伝える物が、高部が最後に奥穂高の廃屋となった療養所で聞く、蓄音機に残された伯楽の「癒やせ、癒やせ」という声なのです

小説版ではこの蓄音機は経典であり、100年前に
伯楽陶二郎が仕掛けた時限爆弾とされています。
CURE (1997) 松竹富士

これに関しては映画では詳細には説明されませんが、小説版の方では「経典」と表現されています。その1で述べたように当初考えられていたタイトルは『伝道師』でした。つまり本作は人々を救済すると同時に社会を混乱へと導く「憎悪」と「技」の継承が描かれているのです。

その4へ続く

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