『猿のミイラが意味するもの』
ポスター等のメインビジュアルでも大きく扱われている不気味な猿のミイラ。胸に×印が刻まれ、さらに手足も同様に×印で交差しています。このシーンより先、映画は決定的に転調します。
「リアリズム=現実的整合性」をきちんと踏襲していたのにこれ以降、高部を中心とした世界が変容し、見ているものが現実なのか夢や思念の中での出来事なのか分からなくなる。非常にあやふやな描写が多くなるのです。

CURE (1997) 松竹富士
黒沢さんの作品はいつも現実世界からスタートしますが、やがて現実と虚構の境界があやふやになり、気づくとドップリ「向こう側の世界」へと引き込まれている。この引き込み方がいつも巧みで、これこそ黒沢節だなぁといつも思います。
本作では猿のミイラがあちら側世界へのスイッチとなっています。そしてそれを見たすぐ後、高部は妻の文江が自殺する幻影を見る。これはつまり向こう側の世界へと移動したことを象徴しているのでしょう。

CURE (1997) 松竹富士
ミイラの形は多分にメタファー的で胸の×印もそうですが、より特徴的なのが腕と足が手前で交差され、針金で強く引っ張られていることです。一般的な八つ裂き刑では手足をそれぞれ「外側」に引っ張るのですが、この猿は逆に「内側」へ引き裂かれようとしている。この「ねじれ」は社会が要請する「役割」や「道徳」によって抑圧された人間性を表しているのでしょう。その矛盾に気づいていた高部は思いの丈を間宮にぶつけます。
「俺は刑事だ。どんな時でも絶対に感情を外に出すな、例え家族の前でも。そう教育されてきたんだよ。その結果がこれだ。俺にはあいつの心が分からない。あいつも俺のこの苦しみは分からない。いざとなったらみんな俺の責任だ。分かってるよ! だからどうだって言うんだよ!!」
中略
「なんで、お前みたいな狂った奴が楽して、俺みたいなまともな人間が苦しまなきゃなんねぇんだよ!あんな女房の面倒を一生面倒みなきゃいけねえんだよ、俺は!!」
CURE (1997) 松竹富士
『凄いよ、あんた』
間宮は催眠術の力も借りずに妻への「憎悪」を言葉にできた高部を賞賛すると同時に「その水があんたを楽にする。気持ちいい、カラッポだ。生まれ変われ、俺みたいに」そう言って内在する憎悪を認めた以上、それに身を任せることで楽になれると示唆します。彼は潜在的にこれを受け入れます。
これにより二人の関係は逆転し、「娘」として「青髯(間宮)」から追われる立場だった高部は逆に「間宮(青髯)」を追う立場となり、彼の持つ「CURE=癒やし」の力を求めるのです。

これを機に2人の関係性が逆転していく。
CURE (1997) 松竹富士
『あちら側の世界へ』
黒沢作品に共通する事柄として、車での移動シーンの奇異な演出が挙げられます。本作でも文江を精神病院へ入院させに行くバスでの車内シーンや、逃走した間宮を追ってパトカーで移動する箇所がありますがいずれも明らかに車の外部が異様な合成です。
バスから見た車外など、まるで雲の中を飛んでいるよう。今作において、これは現実世界と虚構世界(仮にそう呼びます)の間の移動を象徴しているのだと思われます。

上記で猿のミイラがあちら側世界へのスイッチだと書きましたが、それを見たまさにそのすぐ後、高部は車中で文江のことが気になると急いで車で自宅へと戻り、そこで彼女が自殺するという第一の虚構(実は隠された己の願望)を見ます。そしてこれ以降、彼の中で現実と虚構の壁がどんどん崩れていきます。
以下の会話は2人が警察幹部らの前に引き出され、査問される中でのワンシーンですが、なぜかここだけは周りの音声がぶっつりと消され、沈黙が辺りを支配しています。そしてこの会話が終わった後、再び世界に音が溢れ出すのです。

「刑事さん、俺の声聞こえてる? 聞こえてるよね? それがあんたが特別な人間である証拠だ。初めから分かってたでしょ。俺は分かってた。あんた、あの連中とは違う。あんたは俺の言葉の本当の意味を理解できる人間だ」
CURE (1997) 松竹富士
『クリーニング店の赤いドレス』
それに加えて、クリーニング店のシーンも奇妙です。出したはずの洗濯物を預かっていないと店主は言い、高部はそれが間違いだと言う。これは高部が元いた世界から「ズレて」しまったことを現しているのでしょう。
だからこそ前はとても丁寧な人柄だった店主がまるで別人に入れ替わったかのようなそっけない態度を取る。さらに象徴的なのが吊り下げられた「赤いドレス」です。

これはよく見ると胸元が大きく開き、そこで布地が「×印」で交差している。さらに「血」を象徴するようなどぎついぐらいに鮮やかなルビーレッドです。加えて天井から吊り下げられたそれは、高部が妄想で見た、首を吊る文江の姿とも一致します。
そして高部は店主が店の奥に引っ込んだ後もずっとそれを見続けているのです。これがスイッチとなって彼は妻を殺すことこそが己にとっての「CURE=癒やし」なのだと、無意識に感得したのでしょう。
その3へ続く