『本作の裏主人公ノヴァク』
今作はラファウを起点として、地動説に触れた彼の「感動」を、見ず知らずのオクジーやバデーニ、ヨレンタ、ドゥラカらがリレーし、紡いでいく「群像劇=複数の登場人物が進行させていく物語」であり、主人公は彼ら全員です。しかしストーリーを動かす彼らとは別に、もう一人の主人公がいます。それがノヴァクです。
彼は主人公らを異端の名の下に処刑していく異端審問官であり、実は作品の始まり(そもそも彼の拷問シーンで今作は幕を開ける)から終わりまでずっと登場し続ける唯一のキャラクターでもあります。
彼は作中の「狂言回し=主人公ではないが、場面転換や進行に当たる重要な役柄」であると同時に、極めて大きな「象徴」として描かれています。ここで彼が意味するもの=それは「悪」です。これは魚豊さん自身がインタビューで述べています。
人物造形にあたってヒントにしたのはナチスのアドルフ・アイヒマンです。アウシュヴィッツ強制収容所へ無数のユダヤ人を送った人物で、彼についてはいろいろ見解があると思いますが、よくいわれるのは、彼はモンスターでもサイコパスでもなく、「仕事」としてそれを淡々とこなしていた。どうせ自分には決定権がないので、歯車の一部として上司にいわれるがままに粛々と仕事をしていただけ、というものです。
要するにノヴァクもそういう人間なんだと思います。別にファナティックなわけじゃなく、ただ毎日、生活の一部である仕事として、異端者を拷問し、処刑している。理由は上から命令されたから。ただそれだけ。だからこそ、生活として家族や友人を大事にするという一面もある。
Real Sound 『チ。』作者・魚豊が語る、“主観的な熱中”の尊さと危うさ 「気持ちに逆らえない人たちの姿を描きたい」
ある意味で最も普通な価値観のキャラクターだと思います。
皆さんは「悪」と言えば、もっと強大かつ残忍で、破壊の権化の様な存在を思い浮かべるかもしれません。例えば人類史上、最大の戦争犯罪と言われてるナチス・ドイツの大量虐殺。その中心人物であるゲシュタポの長官アドルフ・アイヒマンこそ、その好例であると言えるかもしれない。
しかし、彼の本当の姿は違いました。先の引用で魚豊さんが述べているように、ただ「仕事」として淡々と職責をこなす、典型的な官僚タイプの人間だったのです。そして恐ろしいことに彼には「罪」の意識がなかった。なぜなら自分はただ上の命令に従っただけだと思っていたからです。
『思考しない=本当の悪である』
自身もユダヤ人でアメリカに亡命した政治哲学者ハンナ・アーレントは捕らえられたアイヒマンのエルサレム裁判を傍聴する中、ただひたすら「私は命令に従っただけだ」という主張を繰り返す彼の姿から「20世紀最大の悪は凡庸な男によって行われた」と延べ、それを「悪の凡庸さ」と名付けました。何より「凡庸さ=思考せず、ただ従うこと」の中に「本当の悪」は潜むことを見抜いたのです。
ナチスのユダヤ人虐殺のシステムは巧妙で、強制収容所にユダヤ人を送る際、それに関わる一人一人のドイツ人が罪の意識を感じないように、仕事の切り分けをしていました。全体像を見なくて済むことで、戦後の裁判では多くの人々が「私は自分の業務を果たしただけだ。虐殺が起きていたとは知らなかった」と答えました。彼らに共通するのは「思考」することを止め、ただ「システムの駒」として、部分に奉仕しただけです。
今作は「悪の凡庸さ=本当の悪」として描かれたノヴァクが、主人公らと関わる中で、ようやく「思考」することを始め、己の罪を「自覚」し、己自身こそが「悪」であったと気付くまでを描いた物語でもあるのです。
その始まりはラファウでした。
「フベルトさんは死んで消えた。でも、あの人のくれた感動は今も消えない。多分、感動は寿命の長さより大切なものだと思う。—だから、この場は、僕の命にかえてでも、この感動を生き残らす」
『チ。―地球の運動について―』第1巻 (BIG SPIRITS COMICS)
「……し、正気じゃない。訳もわからん物に熱中して命すら投げる。そんな状態を“狂気”と言うとは思わないのか⁉」
「確かに。でもそんなものを、“愛”とも言えそうです。
ラファウは自身の死の間際、ノヴァクに対して己の生きる意味と、死ぬ覚悟を堂々と述べます。彼にも自分が感じた「感動」を共有して欲しい。今作で紡がれる「感動」のリレーの一員にノヴァクを招き入れようとしたのです。
しかし彼には伝わらなかった。言い方を変えればノヴァクはラファウの言葉を「思考」しようとしなかった。自分と同じ毒を飲ませて殺せたのにも関わらず、そうしなかったラファウの“愛”を、ノヴァクは“狂気”と呼びました。以下のカットはそんな彼らのすれ違いを左右反転の構図によって見事に表現しています。
しかしノヴァクは最後の最後、死の間際で「思考」し、己こそ「悪」であったと悟ります。
「私は本当は……君に思ってたことがあるんだ。しかしそれは異端には感じてはいけない感覚だ。だから忘れたふりをして生きてきた」
『チ。―地球の運動について―』第8巻 (BIG SPIRITS COMICS)
「……なんですか?」
「痛みだ」
〜中略〜
「アレは神から与えられた最初で最後の機会だったのかもしれない。でもその感情を……面倒臭がって、無視したんだ。だからやっぱり、私は……悪役なんだ」
死の間際に始めて「思考」したノヴァク、実はこの「思考」しない彼自身の象徴が、娘時代のヨレンタに送ったブカブカの手袋でした。父親ではあるし、娘を大切にしたいという当然の思いはある。しかし実際の彼は小さな娘の手のサイズすら「思考=想像」できない。
実は異端解放戦線のリーダーが娘だったと彼女が爆死する直前に気付いていたノヴァク。だからこそ彼女の亡骸である右手を肌身離さず持っていました。しかし、どうして娘がそんな風になったのかは理解できなかった。しかし「思考」し始めた彼はようやく彼女の内面に思いを馳せることができたのです。最後にぴったりとサイズのあった手袋は象徴的です。
そして彼の口から漏れた一言、
そうか……お前も見つけたんだな……その為に地獄に堕ちたっていいと思えるものを……。
この言葉はヨレンタに加え、ラファウの最後の言葉、すなわち彼の“愛”を理解したことも意味しています。屈指の名シーンであり、ノヴァクは紛れもなく、今作のもう一人の主人公でもあったのです。
なぜ最後にラファウが出てくるのか? 不思議に思った方がいるかもしれませんが、冒頭で述べたように今作はラファウの「感動」をリレーして、皆が紡いでいく「群像劇」であり、そのアンカーが実はノヴァクだったからなのです。
だからこそフベルトの形見であり、「リレーされる感動の象徴=バトン」でもある、球体のネックレスは最後の最後にノヴァクの手に渡る。いやぁ、それにしても魚豊さんの伏線の張り方はえげつないなぁ。
『やっぱり、文字は奇跡ですね』
最後にこれを書いて、終わりにしたいと思います。僕はその6で、魚豊さんの考える神とは以下の様なものではないかとの考察を書きました。
「神」とは天上世界に鎮座する「唯一絶対的」な存在ではない。「神」とは過去の歴史や、他人の想いにアクセスした際、そのつながりの間に『相対的(他との関係性で成り立つもの)』かつ、その都度ごとに立ち現れる、無数の存在であり、孤独であった人々をつなげ、救済する。
その視点から以下のヨレンタの言葉を読んでみてください。
文字は、まるで奇跡ですよ。
『チ。―地球の運動について―』第3巻 (BIG SPIRITS COMICS)
〜中略〜
アレが使えると、時間と場所を超越できる。200年前の情報に涙が流れることも、1,000年前の噂話で笑うこともある。そんなの信じられますか? 私たちの人生はどうしようもなく、この時代に閉じ込められている。だけど、文字を読む時だけはかつていた偉人達が私に向かって口を開いてくれる。その一瞬、この時代(セカイ)から抜け出せる。文字になった思考はこの世に残って、ずっと未来のだれかを動かすことだってある。
そんなの……まるで、奇蹟じゃないですか。
「神」が歴史や他人の想いにアクセスした際に立ち上がる「相対的」な存在であるとしたら、「文字」とは「神」の姿を変えた形であるとも言えます。そして、その文字を使って描かれた幾多の創作物もまた同じです。つまり上記の引用の「文字」を「漫画」に入れ替えることだって可能なわけです。だからこそ、
「創作物=漫画」は、人の人生を救う「神」になり得ることが出来る。
ここに魚豊さんの辿り着いた新たな創作論があると思います。前作、『ひゃくえむ。』までの彼は徹底して「個人」を描いてきました。むしろ他人から見える社会的な自分を排除し、ひたすら己の欲望を磨き抜くことで、「純粋さ」を手に入れようと足掻いてきた。その姿はまさに今作のラファウそのものです。
人間は最後まで自分の心しか理解できないし、誰にもどこにも居場所なんてない。連帯も共感も愛情も全てこっちの思い込みだ。そして極めつけに皆、絶対死ぬ。冷静に考えたらこんなヤバイ話ってないよ。そんな真理が人間(おれたち)を絶えず不安にさせる。が、そんな真理には人間(おれら)が本気でいる時の“幸福感”を1ミリも奪えない。
「ひゃくえむ。」新装版 下巻 (KCデラックス)
〜中略〜
……速さは君が見つけて、君が目指した君の特技だろ? それが虚しかったと君は思うのか? 本気で走れば全ては吹き飛ぶ。研ぎ澄まされた世界は全て煌めく。そういう景色を見てきてないなら、この100mだけはそういう景色を見ようぜ。
しかし、そこから飛躍し、今作『チ。—地球の運動について—』や、次作『ようこそ!FACT (東京S区第二支部) へ』は、どちらも集団における他者とのつながりを描いている。もちろん「個」を磨き抜くことが間違っているわけではありません。むしろ「個」を磨き抜くことで見えてくるものがあった、そういうことでしょう。
その意味で今作の最後に登場するアルベルトは成長したラファウであり、成長した『ひゃくえむ。』の主人公トガシであり、「個」から「社会」へと軸足を移した魚豊さん自身の姿でもあるのでしょう。
磨き抜かれた「個人」と「個人」が、「つながり」を形成する一瞬、そこに「神」は存在する。
ぼくらは足りない。だから補い合える。そうじゃなきゃ、この世界には挑めない。人間は“社会的(ポリス)な動物”だ。—先生、僕もタウマゼイン(世界の美しさに痺れ、同時に?と感じる心)を感じます。それを肯定し続けます。貴方とは違ったやり方で、疑いながら進んで。信じながら戻って。美しさに、煌めきに、逼り詰めてみせます。
『チ。―地球の運動について―』第8巻 (BIG SPIRITS COMICS)
そう誓った後、彼が己の指で天空の星々を「つなげる」シーンはまさに「個」と「個」をつなぎ、「星座=神」を描き出していると言えるでしょう。この一連のシーンは、
この世で「神」の代替になり得る創作物を描きたいという、魚豊さんの無意識から出た密かな、しかし切実な欲望であり、読者に対する宣言である
と個人的には理解しました。
壮大です。馬鹿げていると人は言うかもしれない。しかしこの中二病的とも言える気骨がなければ、真の創作者になどなれない。そういう意味で魚豊さんの中に、前に論じた『進撃の巨人』の諫山創さんと相通ずるものを感じました。
全8巻、かなりコンパクトにまとまった作品です。当初は3〜4回ぐらいの連載で終わるかなと思っていましたが、倍近くかかっちゃいました。と言うのも読めば読むほど、書くべき事が溢れ出てくるからです。魚豊さんはこれを書いている時点で何とまだ27歳、とてつもない怪物です。その作家人生の先で、まだまだ豊潤な実りを僕たちに届けてくれることでしょう。
拙い一読者の願いですが、このような哲学的なテーマを扱う作家さんの場合、その探究の果てに随分と難しく難解な『あっち側の世界』へ行ってしまう方もチラホラ見受けられます。難解な事象や概念を、難しい言葉や表現手法で語るのはもちろん素晴らしい事ではあります。
でもそれ以上に難しいことを『エンターテイメント』として、誰にでも分かる言葉で語り続けるのはもっと素晴らしい事だと思います。是非、その探究を『漫画=エンターテイメント』として描きつつ、人の魂を救済する「神」の代替となる作品の登場を期待しております。