『感情こそ、世界を動かす原動力である』
これを書いているのは2024年10月ですが、ちょうどアニメ公開の時期と重なったこともあって、ずっと書こうと思っていた今作を題材に選ばせて貰いました。それに伴い全巻再読したところ、初読時に感じた「熱量」が再び甦ってきました。
前作かつデビュー作の、100m競争に己の全てをかけるランナーたちを描いた『ひゃくえむ。』もそうですが、とにかく魚豊さんの作品は熱い熱い……。その熱さは現代の様々なクリエーターの中でも群を抜いて突出している。これこそ魚豊さんの大きな個性であり、「熱い=かっこ悪い」なんて、この人の辞書にはないのでしょう。
この「熱さ」の根源は彼の作品が常に「感情」へ矛先を向け、描かれているからに他ならない。以下は第26回「手塚治虫文化賞」を受賞時の言葉の抜粋です。
朝日新聞デジタル(2022年4月25日)
手塚先生は“キャラクター(記号)”と“物語(意味)”という2つの魅力を繫ぎ合わせ、豊穣な漫画文化の発展と、慧眼な社会批評を繰り出した。なんて話をどこかで聞いて、私はその大仕事に畏敬を感じるばかりでした。
ですが、そのような批評的視座以前に、私の様な未熟者が学生時代に感じた先生の最大の魅力は人の、個人の心を動かす“感情”でした。
この3つ目の魅力は、漫画において表現技法やストーリーテリングに先立つものだと信じてます。それ故に最も素朴で、最も前提で、最も困難で、最も重要なものだとも信じています。
そして、手塚漫画はそこに立脚された作品だから、偉大な歴史でありながら、身近な現在でもあるのだと思います。
恐れ多いですが私も、この先人のその背中に憧れたいと思います。
どんな結果も、まずは引き金となる「動機」に加え、それを実行に移す「何か」が必要である。例を挙げるなら、進化論はなぜこの地球上で人間が繁栄したのか? その結果を示すことは出来ても、「なぜ我らの先祖が進化へと繋がる行動を取ったのか?」の説明は出来ない。
樹上で暮らしていた猿のうちの1匹がある日、目の前に広がる大平原の向こうへ行きたいと願い、樹上から降り、それはやがて人間となった。その時、初めの一歩を踏み出した猿の脳裏に何があったのか? 安全な樹上を捨て、なぜ危険な平原の向こうを目指したのか?
そしてその進化の行き着く先として、人はなぜ宇宙を目指すのか? それらを突き動かすのは理性や損得を越えた「何か」であり、それに最も近い言葉はやはり「感情」なのでしょう。
今作、『チ。—地球の運動について—』はその視点から見ると「感情」の最上位たる【感動】のリレーを描いた物語だと言えます。
「多分、感動は寿命の長さより大切なものだと思う。—だからこの場は、僕の命にかえてでも、この感動を生き残らす」
『チ。―地球の運動について―』第1巻 (BIG SPIRITS COMICS)
「それは俺が地動説の意味を知った時、多分、感動したからです」
〜中略〜
「つまり俺は、ちょっと前までは早く地球(ここ)を出て、天国へ行きたかったけど、今はこの地球(かんどう)を守る為に地獄へ行ける」
中でも理性の権化、バデーニが己の人生が詰まった精緻で『知性的』な研究論文でなく、オクジーの稚拙でありながら、地動説に触れた『感動』が詰まった文章の方を選び、後世に託したシーンは象徴的でした。
「復元されるのは君の文章だ」
『チ。―地球の運動について―』第5巻 (BIG SPIRITS COMICS)
〜中略〜
「君の文章は論文としての価値はない。—が、それ故、伝わる可能性は高いだろう」
「伝わる? 何が……?」
「感動だ。それさえ、残せれば、後は自然と立ち上がる」
そして、「感動」はヨレンタに受け継がれました。
「あなたの読んだ地動説を覗き込むと、神の偉業が見えてくる」
『チ。―地球の運動について―』第7巻 (BIG SPIRITS COMICS)
「そうですか。で、だから? 申し訳ないですけど、それ、なんの話ですか?」
「わからない? 私の感動を、必死に伝えてる」
紡がれ続けた「感動」はやがて「歴史」となっていく。それこそが今作で魚豊さんが最も描きたかったことなのでしょう。
『100mだけ誰よりも速ければ、どんな問題も解決する』
上記は前作『ひゃくえむ。』を最も象徴するパンチラインとも言うべき名台詞です。ただの駆けっこでしかない、わずか10秒以内で決着が付いてしまう100m競争。しかも肉体的ハンディキャップのある日本人は少なくとも「世界」の場では戦えない。しかし、そんな場所にそれぞれの「想い」を持って立ち続けるランナーたち。
たかが駆けっこに己の全てをかける。その馬鹿馬鹿しさに内心みんな気付いている。だからこそ彼らは「僕らは一体、何の為に走ってるんだ?」と自問自答する。けれどその苦しみ、足掻く様が読者を熱くさせる。みんな分かってる。生きることに絶対的な意味=答えなんて多分ない。
そんな馬鹿馬鹿しい人生に対する最高の復讐は、己が欲する【欲望の震源】を見極め、それにこだわり抜くこと。前作の主人公らが没頭するのは「たかが駆けっこ」であり、今作では「地球が動いているのか? それとも天が動いているか?」という普通の人々にとってはどうでもいいつまらない物事です。
加えて新装版の『ひゃくえむ。』に追加収録されたデビューのきっかけとなる『佳作』では才能の無いテニス選手が、テニスとは一球多く、相手の陣地に打ち返した者が勝者になる、という真理に気付き、才能ある敵選手の球をただただ打ち返し続けるというストーリーでした。
そういう意味では根源となるテーマについて魚豊さんは実に一貫している。それは「人はなぜ生きるのか?」というシンプルかつ哲学的なもの。今回調べたところ、実際に彼は大学で哲学を学んでいたそうですが、さもありなんです。
「人はなぜ生きるのか?」という哲学的テーマを、①ある時は100m競争に、②ある時はテニスの延々と続くラリーに、③そして今作では地動説を信じ抜こうとする人々に。いずれも普通の人なら「しょうもない」と思うような物事に置き換え、その空しさと、それ故にこだわることの素晴らしさを描き続け、毎回着実なアップデートを果たしています。
デビュー作『ひゃくえむ。』から今作『チ。—地球の運動について—』で「人はなぜ生きるのか?」という通底するテーマに加え、魚豊さんが新たに挑んだのが「知性と暴力」でした。それは彼自身の言葉で述べられています。
知性と暴力について描きたいと考えている中で、ぴたりと当てはまったのが中世ヨーロッパの地動説を巡る話でした。作中では、科学が知性で宗教が暴力を象徴しているように見えますが、その逆の宗教が知性的で、科学が暴力的という場面もあります。科学は宗教を否定しているわけではないし、むしろ地動説を支持する側がカルト的な集団です。そういう複雑さを描きました。
中日新聞(2022年10月19日)
ちなみにこの「知性と暴力」をとんでもないくらいに素晴らしく表現したカットがあります。コミック第1巻の表紙です。初見時にはよく分からなかったのですが、通読した後なら分かります。最終巻に現れる青年のラファウが死刑として首をくくられ、縄=暴力で宙づりにされながらも、アストロラーベで天体の観測=知の探求を続けるという、とんでもないカットです。
完読した後にこの意味に気付いて鳥肌が立ちました。つまり魚豊さんは初めの段階で完璧にラストまで、設計図を描いていたという事ですよね。
加えて、個人的にこりゃ凄ぇと唸ったのが、後で詳しく述べますが、今作における「知性と暴力」を探求する中で彼が見い出した「神」とは本当に存在するのか? するのなら、どんな存在であるのか? という問いに対する「仮説=答え」です。
前に評論した「堕天作戦」が作品世界に『宗教と政治』を盛り込んだ傑作だとすれば、魚豊さんは作品世界に『哲学』を持ち込んだ。そしてお二人とも素晴らしいのはそれを『エンターテイメント』に昇華させきっているところです。
哲学や宗教こそ、今後エンターテイメントが開拓すべき未開のブルーオーシャンであり、そして何より現代において人々が根源的に求めているものではないのか? そういう意味では今、日本の漫画は世界文学の最前線であると思いますし、間違いなく彼はそのトップランナーの一人です。
その2へ続く