『モラリティーと同時存在 』
この作品の難解性を際立たせている大きな要素として「モラリティーと同時存在」があります。これは家に遊びに来た、アフリカ帰りの「彼」が、主人公である「僕」に納屋を焼き続けていることを打ち明けた後、「僕」からなぜそんなことをするのか? 焼くべき納屋をどうやって選んでいるのか? を質問された時の答えとして提示されます。
「でもそれが不必要なものかどうか、君が判断するんだね」
「僕は判断なんかしません。観察しているだけです。雨と同じですよ。雨が降る。川があふれる。何かが押し流される。雨が何かを判断していますか? いいですか、僕はモラリティーというものを信じています。モラリティーなしに人間は存在できません。僕はモラリティーというのは同時存在のことじゃないかと思うんです」
「同時存在?」
「つまり僕がここにいて、僕があそこにいる。僕は東京にいて、僕は同時にチェニスにいる。責めるのが僕であり、ゆるすのが僕です。それ以外に何がありますか?」
村上春樹 著(1983)「納屋を焼く」新潮社
何じゃこりゃ? って感じですよね。意味として「モラリティー」とは「道徳、倫理性」を指す言葉です。なぜそれが「同時存在」なのか? 同時存在とはシンプルに説明すると同じ世界の異なる場所に、同時に2つの物事が存在することです。哲学において「空間と時間」に関する「同時存在」という難しい概念もありますが、村上さんがここで語ろうとしたのはそのようなことではないと思います。
では、ある物事が同時にこの世界に存在している。それを受け入れることがなぜ、「モラリティー=道徳」であるのか? 正直、そこで意図されたものが何かなんて、僕には分かりかねますが、それでもこの後に書かれた幾つかの作品世界を読み込んでいくと、想像はできます。
と言うのもこの次に発表された長編「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」以降の村上さんは「今ある現実世界」と、それと同時平行して存在する「もうひとつの世界」を行き来する物語を描き続けているからです。
『誰もが抱えるティファニーみたいなところ=逃避世界』
「もうひとつの世界」─それはカポーティも描き続けたものでした。ただし、村上さんのものと比べて、カポーティのそれは非常に狭く、かつ個人的なものでした。彼の作品に出てくるキャラクターたちはいずれも今、生きている現実の世界に馴染むことができず、そこからの逃避手段として、自分の心の中に逃げ込むことのできる「もうひとつの世界」を持っています。幾つかその例を並べてみましょう。
「かわいそうな猫ちゃん」と彼女は猫の頭を掻きながら言った。「かわいそうに名前だってないんだから。名前がないのってけっこう不便なのよね。でも私にはこの子に名前をつける権利はない。ほんとに誰かにちゃんと飼われるまで。名前をもらうのは待ってもらうことになる。この子とはある日、川べりで巡り会ったの。私たちはお互い誰のものでもない、独立した人格なわけ。私もこの子も。自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかっている」、彼女は微笑んで、猫を床に下ろした。「それはティファニーみたいなところなの」と彼女は言った。
トルーマン・カポーティ 著/村上春樹 訳(1958)「ティファニーで朝食を」新潮社
わたくしは正確に申し上げますと、ここに住んでいるというわけではありません。わたくしの頭にはいつもどこか別の場所があります。そこではすべてのものがダンスをしております。たとえば人々が通りでダンスをしていて、何もかもが美しくて、たとえば誕生日の子どもたちのようなところです。
トルーマン・カポーティ 著/村上春樹 訳(1949)「誕生日の子どもたち」新潮社
「私は昔ある場所にいたの。そこでは二人の女の子が踊っていたわ。二人ともとても自由で─ほかには誰もいなかったの。それはまるで日暮れのように美しかった」
トルーマン・カポーティ 著/村上春樹 訳(1946)「無頭の鷹」新潮社
もし村上春樹という作家が「何か重大な」発見をしたのだとしたら、僕はこのカポーティが提示したような、狭く個人的な「逃避世界」を実は誰しもが有しており(実際、僕にもあります)、それはどこか地下深くのような場所で繫がっていて、大きな広がりをもっているんじゃないのか? それを想像し、かつ確信したことだと思います。
今ある自分とは別の、こうありたいと願うもう一人の自分、何かの過ちにより、そうなることが叶わなかったもう一人の自分、それが現実世界とは別の場所で息をして、生活(同時存在)している。それを認めることが人間という存在に対する「敬意」=「モラリティー」ではないのかと、語ったのがこの作品だと思うのです。そして、この作品の後、村上さんはそのような世界へ毎回「旅」する話を描き続けています。
『連れ戻されるイノセンス』
では「アフリカ=もうひとつの世界」から帰ってきたイノセンスの象徴=ホリー・ゴライトリー、すなわち「納屋を焼く」においての「彼女」はどうなるのか? 端的に言って、このままでは死ぬしかありません。カポーティもそれは分かっていました。これは村上さん自身も本作の中で述べています。
もちろんそんな作用がいつまでもいつまでも続くというものではない。そんなものが永遠に続くとしたら、宇宙のしくみそのものがひっくりかえってしまう。それが起こり得るのは、ある特定の場所で、ある特定の時期だけだ。それは「蜜柑むき」と同じことなのだ。
村上春樹 著(1983)「納屋を焼く」新潮社
だからこそカポーティは「アフリカ=もうひとつの世界」へとホリーを逃がしたのです。そうすることでしか、カポーティは「己の根幹を成すもの=イノセンス」を守ることができなかったのでしょう。
だからこそ、無理矢理1980年代の日本という「現実世界」へ連れてこられたイノセンスは、向こう側の世界へと連れ戻されなければなりません。なぜならそれが宇宙のしくみであると同時に「彼=カポーティ」にとってのモラリティでもあるからです。
では「同時存在」における、こうありたいと願うもう一人の自分が「彼女」なのだとしたら、現実世界における彼女の「実体」となるべき存在は誰なのか? それは疑いようもなく主人公である「僕」をおいて他にないでしょう。焼かれた納屋とは「僕自身のイノセンス」なのです。
『そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ』
この「僕」と「彼女」の関係性はこの後、書かれた「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」においても、「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」という同時並行して存在する2つの世界、「主人公」と夢読みを助けてくれる「彼女」、「実体」と切り離されてしまった「影」のように、まさに「同時存在」として、たびたび現れてきます。
この作品の中で「彼女=僕のイノセンス」は蜜柑むきにおいて「そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ」、つまり向こう側の「もうひとつの世界」を忘れて生きていけとメッセージを発してきます。同時存在を認めることがモラリティーであると村上さん自身、書いたにも関わらず、「彼女」はその存在を忘れ、「僕」に「私」を切り離せと言ってくる。なぜでしょう?
それはその1でも書いたようにイノセンスを捨て去らないと僕が「社会化」されず、真の「大人」にはなれないからです。この社会、特に80年代のシラケきった日本において、イノセンスとは不必要でダサいもの、つまり居場所を与えられない存在でした。
僕は本作をフォークナーの「納屋は燃える」に加え、それ以上にカポーティの「ティファニーで朝食を」が発火点となって書かれた作品だと述べました。しかし、それだけではこの「納屋を焼く」は村上春樹という作家の「作品」にはなり得ません。
ベースとなった2つの作品を読むだけでは意味がなく、そこに村上さんが何をミックスしたのか? そこでミックスされた「村上さん自身」があったからこそ、この作品は傑作となったのです。では、付け加えられた「何か」とは? それは村上春樹という一人の人間がずっと抱え続けた、ある挫折の記憶だと思います。
その3へ続く