『崩壊の予兆』
物語が決定的な転調を見せるのが、子供たちの誕生会だということで母に家を追い出された「わたし」が、バスで三十分もかかる喫茶店へと繰り出し、そこで試験勉強しようとするも、どうしようもなく眠気に襲われるシーンです。これ以降、実は主人公の家庭が崩壊しかかっていることが明示されていきます。
この喫茶店のシーンは一読すると意味不明で、本作の中で最も不思議なシーンであると言えます。なぜ主人公である「わたし」はバスで三十分も家から離れた喫茶店へ向かうのか? どうしてそこで眠り込んでしまうのか?
これを神話的構造を持つ物語として読み解くと「世界の果て」への流浪と、そこにおいてのかりそめの「死」。さらに「再生」を現しているのだと思います。(※神話について書き出すと長くなるので、前に書いたこちらをお読みください)
物語の構造上、本作は『こちらあみ子』と似ています。いずれも主人公は外部世界から私たちが暮らす社会へとやって来て、そこを旅し、傷つき、やがて元の外部世界へと帰っていく。行っては帰るという実に神話的作品なのです。
ただしここで重要なのが西洋的な「成長」神話でなく、「別離」をベースにした多分に日本的な神話だと言うこと。例を挙げるなら、まさに日本に古来から伝わる『かぐや姫』がそうです。これを元にした大傑作が故・高畑勲監督の『かぐや姫の物語』であり、そこで描かれるかぐや姫は今村作品の主人公たちと共通するアウトサイダーであり、それ故の純粋さを有しています。

今村作品にも根底には日本人的精神性がある。
海外の人には描けない作品世界だと思います。
『のりたまが死んだよ』
崩壊へと向かう一家を救うため「神様=のりたま」は最後の力を掘り絞って「男の子」へと姿を変え、深夜零時に家を訪れます。誰一人こなかった誕生会用に作られたカレーライスを食べるために……。
「こんなおいしいカレー生まれて初めて食べました」なんてことない台詞です。けれど息子が家を出ていってから今日まで、実は母が最も欲していた言葉こそがそれなのです。「ふふふ。よかった」「はははは。ゆっくり食べなさい」
一方、近所の子供たちからも両親からも見捨てられたのりたまはどんどん衰弱し、やがて死を迎えます。以下はそのシーンの引用です。神々しいという言葉が似合うぐらいの圧倒的な筆力に加え、今村さんの「祈り」を強く感じます。
たらいにお湯をくんできて、タオルを浸し、まずは体の表面をやさしく拭いてやりながら、こびりついた泥やわらを落とした。そしてのりたまの体をそうっとたらいの中に移した。小さな頭、目、くちばし、首、おなか、尾っぽ、足、足の裏のこぶ、みずかき。ゆっくりと時間をかけて、のりたまの体をすみずみまで洗ってやった。
縁側にバスタオルを敷き、その上に洗い終えたのりたまの体を横たえた。わたしはその隣に腰かけて、朝日に照らされたきらきら輝く濡れた大羽根を一枚一枚拭いていった。
ようやく拭き終わるころには、太陽は頭のてっぺんの高さまで昇っていた。父と母はテレビでお昼のニュースをみながら、そうめんを食べているところだった。わたしはガラス戸を開けて顔を出し、
「お父さんお母さん。のりたまが死んだよ」
と言うと、二人とも驚いた顔をした。
今村夏子 著(2016)「あひる」書肆侃侃房
不覚にも書き写していて、泣きそうになっちゃいました。個人的に最も感動したのが主人公の「わたし」が時間をかけて細部までしっかり、のりたまのことを認識し、ひとつひとつ胸に刻みつけていこうとすることです。個人的に真に故人を「弔う」とはそういうことであると思います。
「のりたまが死んだよ」これは主人公が最も言いたくて言えなかった言葉。加えて、母と父が最も聞きたくなかった言葉でもある。のりたまとは神様であり、人が生きる上で最も大切にすべき指針。それが「死んだ」と遂に「わたし」は告げたのです。
『一ぴき目も二ひき目もこの中にいるの?』
その後、主人公以外にも過去に存在したのりたまは全て異なる三匹のあひるであったことを見抜いていた女の子が現れ、のりたまのお墓に向かって上記の台詞を告げます。そうです。小さな子供にすら分かることだったのです。そんなことすら両親は理解できなかった。
やがて家族の元に唐突に弟が帰ってきます。そしていつの間にか不良の溜まり場となっていた我が家から少年らを追い出し、結婚して8年、ようやく子供が出来たこと。加えてこの家に戻ってくることを告げます。家族は再び一つとなり、母と父の願いは成就します。
一方、のりたまの存在はニワトリ小屋の解体と同時に忘れられていきます。墓も既にどこにあるのか分からない。けれど僕らが今立っている足元にはそうやって葬られた幾多の「神様=大切なもの」が眠っている。水に流すとは日本独自の価値観であり、それによって得られるものも多くあります。けれど忘れてはいけないことがある。それは「わたし」がのりたまの大羽根一枚一枚を丁寧に拭くことで胸に刻みつけていったものです。
その後、弟夫婦を向かい入れる準備で「わたし」の周りは騒がしくなり、勉強にも集中できません。そんな中、今日も2階から母と父の様子を覗くとのりたまの代わりに今度はバラを育てるのに夢中になっていることが分かります。「神様=大切なもの」をすり替え、彼らは生きていく。それは仕方のないことなのかもしれない。
けれど「わたし」は忘れない。この2階(アウトサイド)から世界を観察し、書き続けていく。本作はそんな今村さん自身の宣言であるようにも思えます。本当に読みやすく、けれどその奥に世界文学とでも呼ぶべき普遍的な「大切なこと」が眠っている。
そんな作家の作品がリアルタイムで読めるのは本当に幸せなことです。ひょっとして数年後には全米図書賞やブッカー国際賞、はたまたノーベル文学賞を取っているかもしれない、個人的にはそんな期待を胸に抱いています。