『あみ子の先へ』
先に書いた『こちらあみ子』の評論で、僕はあみ子とはある種の「システム」であると述べました。システムとは【全体を統一する仕組みや方式】であり、まるで意思があるかのように自立的な運動を行います。前作において今村さんが発明した「あみ子」というシステムは書き手である彼女にとって、作品を動かす大きなエンジンであったことでしょう。
あみ子の後についていくだけで、今村さんの中から物語が溢れ出てくる。後はそれを文章として定着させていけばいい。(※もちろん、そんな簡単な話でないことは百も承知ですよ)ある意味「あみ子」を創造しえた時点で勝ちだったとも言える。これはどんな分野の仕事においても同じ。ビッグ・アイデアをものにするとはそういうことなんです。
最近の小説で例を挙げるなら、芥川賞を受賞した若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」の主人公、74歳の老女である桃子がその好例でしょう。若竹さんもまた彼女の後についていくだけで物語が溢れ出てきたことだと思います。それを丹念に書き取っていった結果、青春小説に対して玄冬小説という新ジャンルまで創造してしまった。
どちらも素晴らしい小説であり、その魅力の源泉はそれぞれがストーリーを生み出してくれる強力な「システム」を手に入れたから。けれどこれは作家にとって諸刃の剣かもしれません。なぜならそれらが創造した作品があまりに素晴らしいのに加え、作家はそのシステムを次の作品で使い回すことができない場合があるからです。
まさに今村さんがそうでした。唯一の解決策はあみ子が主人公のシリーズ物を書き続けることですが、正直なところ、皆さん食指はそそられないのではないでしょうか。
『どうやって新たな物語を紡いでいくのか?』
「あみ子」というシステムを使わず、どうやって物語を紡いでいくのか? 5年の沈黙の後、今村さんが提示した答えは自身が「あみ子=社会のアウトサイダー」になるということ。それに加え、前作でも色濃く垣間見えていた、宗教的テーマを追求すること、この2つだったのだと思います。なぜ「宗教」なのか? それは現在我々が信じている科学をベースとした「常識の外(アウトサイド)」に広がる世界だからです。
誤解のないよう述べておきますが、この場合の宗教的テーマとは、神様について論じることではありません。もっと大きな視点で何を信じて生きていくのか、何を大切に人生を送るのか、つまり生きる上での精神的指針を模索することです。
ちなみに今作で主人公の両親は息子が家を出て行ってから以降、新興宗教に入れ込んでいます。宗教に精神を支配された家族という題材は次作の『星の子』でも取り上げられており、今村さんにとって大きな関心事であるのが分かります。もしかしたら個人的なトラウマがあるのかもしれません……。
『あひる=神様』
のりたまとはまさに神様の代理的存在です。実際のりたまのお陰で主人公の家族は停滞から抜け出し、母と父は生きがいを手に入れます。しかし、のりたまは神様を演じさせられる上で生命を吸い取られ衰弱していく。人知れず死んだのりたまは別のあひるへと代替され、新たな神様が誕生する。
つまり身勝手な人間=両親は代替可能な存在として、記号的に「のりたま=神様」を消費しているのです。これは現在の日本人の抱えるある種の精神性、特に宗教観を表しているのだと思います。大変不敬な言葉ですが、それこそ多くの人たちにとっての天皇制を描いていると言っても過言ではない。
ただし、ここで明確にしておきたいのは先にも書いたように宗教観とはどの神様を信じるのかということではなく、何を大切に生きていくのかという精神的な指針です。
それを持たない我々は心理学者、河合隼雄さんの言葉を借りれば太平洋戦争後、「お金」を神様と崇めるようになってしまった。だから日本人は欧米の人々と違って、本来使うはずであるお金をせっせと貯め込むのだと……。
『これはのりたまじゃない』
「のりたま」は母と父にとっての幸せの象徴である「子供たち」を引き寄せ、それと引き換えに主人公の「わたし」は蔑ろに扱われるようになります。母は彼女の敷物を子供らに与え、会話する時は目を合わせない。せっかく作ったカレーも食べちゃ駄目よと言って、ふりかけご飯を食べさせる。挙げ句の果てに「ちょっとそこどいて」と食堂から追い出すのです。
わたしは家族にとってのアウトサイダーであり、普段は2階に追い払われている。しかし部外者であるが故に母と父が行う、のりたまに対する酷い扱いを直視し、「神様(生きる上で最も大切なもの)の取り替え」という、とんでもない欺瞞を難なく見抜くことができる。
おかしい。
これはのりたまじゃない。
わたしは隣りに並んで立っていた父と母の顔を見上げた。
「どうしたの?」
父と母の声が揃った。二人とも、不安気な目でわたしを見ていた。
のりたまじゃない、という言葉がのどまで出かかった。本物ののりたまはどこ行った?
でも、何も聞けなかった。父と母が緊張した様子で、わたしの次の言葉を待っているのがわかったからだ。
「べつにどうもしない」と、わたしは言った。
今村夏子 著(2016)「あひる」書肆侃侃房
「のりたまじゃない」この一言はまさに今村夏子さんという作家性そのもの象徴だと言えます。アウトサイダーだからこそ見えるものがある。アウトサイダーだからこそ感じ取れるものがある。上から目線で偉そうですが、今作を書くことで今村さんは己の立ち位置を明確に自覚し、真の意味での職業作家になった、僕はそう思います。
その3へ続く