「メリーに首ったけ」が描く、あの世という名のワンダーランド ─ その2【完】

『大人の不思議=ヒット作の不思議 』

「時をかける少女」─この映画が持つ本当の意味はかつてTBSのラジオ番組『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』において、大林宣彦監督を招き、宇多丸さんと対談した回があって、そこで語り尽くされています。音源はもうないかもしれませんが、幸いなことに書籍となって『ウィークエンド・シャッフル“神回”傑作選 Vol.1』に収録されているので、興味があったら是非、手に取って見てください。驚愕の内容です。無茶苦茶面白いです! 

ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル
“神回”傑作選 Vol.1 (2015) スモール出版

この映画は若い世代の方は観ていない人が多いと思うので、ネタバレにならないようストーリーは語りませんが、上記の書籍から引用すると、こんな映画だったんです。

大林 つまりね、映画というのは「意識の流れ」。作り手の主観だと僕は言いましたでしょ。この映画は角川春樹プロデューサーと監督の僕と2人の合作映画なんですよ。これ角川映画じゃないんです。正しく言うと角川春樹という私映画なの

宇多丸 あ、そうですね。

大林 角川春樹さんが原田知世を……本当ならば自分の嫁にしたいけれども、歳が違いすぎるから、せめて息子の嫁にしたいと。そして1本だけ彼女にプレゼントして、映画界からは辞めさせようという恋の断念の映画だったんです、これは。

宇多丸 そこまで……。

大林 かりそめであればこそ、より純粋にね。それで「大林さん、尾道で撮ってください」と。映画で実らぬ恋文を書くと。そりゃ私も乗りますわな(笑)

〜中略〜

宇多丸 しかもその少女が、ある種思い出というか、ある空間に閉じ込められてしまうような話じゃないですか

大林 そう、籠の鳥ですよ。ヒッチコック映画と同じだわ。精神的純愛レイプ映画(笑)

(2015)「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル“神回”傑作選 Vol.1」スモール出版

要は角川春樹(この映画のプロデューサー)という、いい歳こいたおじさんが原田知世という、当時まだ中学生だった女の子に恋をして、その子のことを諦める代わりに映画の中で彼女と想いを遂げるという、ある意味、恐ろしい作品だった訳です。

この映画という妄想世界の中に理想の女性を閉じこめるのは「メリーに首ったけ」も全く同じです。ちなみに下のインタビューを読むと原田知世さん自身も違和感は感じてたみたいですね。

時をかける少女 (1983) 角川春樹事務所/東映

大林 知代もね、この『時をかける少女』が終わった時に「私、この映画、なんかポキポキしたお人形さんみたいで変じゃないですかー?」と言っていたんですよ。

宇多丸 やっぱり生身の少女としては。

大林 生身の少女としては、おじさんたちに勝手に作られたお人形さんを自分はやらされちゃったという、理不尽な思いがとてもあったと。まさに愛の籠に閉じ込められた小鳥。そのとおりで、彼女もこの映画から逃げ出したくて、『時をかける少女』も随分歌わないまま来て。 

※映画主題歌「時をかける少女」は原田さん自身が歌っていました。しかし、ずっとその曲を歌うのを封印していたということですね。

宇多丸 呪縛がやはり強いんですね。

(2015)「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル“神回”傑作選 Vol.1」スモール出版

『人は歪みにこそ、魅せられる』

これだけ読むと薄気味悪い、変態とも言われかねない映画なのかもしれない。しかし優れた作品とはそういうものです。実際、宇多丸さんは小さい頃この映画に出会ってノックアウトされ、何度も見返すことで、ずっと記憶に留め続けている訳ですから。

しかも彼だけでなく、日本中の若い男の子たちが一斉にグラッときて、記録的な興行収入を記録してしまった。これは「メリーに首ったけ」も全く同様です。どうしてこんなことが起こるのか? 大林さんは以下のように語っています。

大林 あれはそういう映画なんですよ。だから当時の何にも知らない、いたいけな14〜15歳の男の子たちまでが、ブルブルッときちゃった。

宇多丸 いや〜、だからね、そうなんですよね。不思議なのはね。

大林 これが魔術、芸術の魔術なんですよ。子どもたちは大人の不思議を嗅ぎ取っている

(2015)「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル“神回”傑作選 Vol.1」スモール出版

映画や小説なんて、どうしようもなく薄汚れた人間の「業(ごう)」の肯定に他ならないし、そうでない作品になんの意味があるんでしょう。そして子どもほど、そういった漏れ出す「欲望」を敏感に嗅ぎ取ってしまう。この欲望やトラウマ、妄念が結局のところ作品という形となって、観る人をノックアウトする。

そして自主規制のない、ある意味で剥き出しの欲望こそが、全ての人間が「観たい、知りたい」と等しく望んでいるものだというなのです。

僕自身の私見ですが「全ての人間は変態」です。この世に「変態」でない人間なんて一人もいない。もちろん節度は必要ですが、その「変態性」を開示できる勇気がない限り、人をノックアウトできる作品なんて作れっこない。それを「メリーに首ったけ」や「時をかける少女」の大ヒットが証明していると思います。

『あの人を幸せに、あの人と幸せに』

最後になりますが「メリーに首ったけ」そっくりのエンドロールシーン。こちらでも登場人物たちがオールキャストで楽しそうに主題歌「時をかける少女」を歌っています。そして最後は原田知世さんが映画内の役ではない、一人の15歳の少女として映されて終わる。このシーンに関して、大林さんは以下のように述べられています。

時をかける少女 (1983) 角川春樹事務所/東映

宇多丸 ちなみに最後のカーテンコールは、場面場面で最後にカーテンコールに落とし込むぞと考えて、撮ってないとできないですよね。最後にあそこに着地させるのは計算があったということ?

大林 そりゃ、最初からね。

宇多丸 あれがないと救いがないってことですか?

大林 つまり、花も実もある絵空事にしようと。根も葉もある嘘八百でもよい。重たいつらい嘘が強い映画だから、最後にカーテンコールでふっと自然に根や葉のほうに解放してやろうと。あそこだけがポキポキしない15歳の少女なんですよ。

(2015)「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル“神回”傑作選 Vol.1」スモール出版
時をかける少女 (1983) 角川春樹事務所/東映

これはファレリー兄弟も全く同じ気持ちだったのではないでしょうか。「メリーに首ったけ」では兄弟が好きだった亡くなった女の子。「時をかける少女」では角川春樹と大林宣彦というおじさん2人が惚れた中学生の女の子。それぞれを「映画」というあの世ならざる別世界に閉じ込める作品でした。

There’s Something About Mary (1998) 20th Century Fox

そこでは作り手の「妄念」が映画に強度と深みを与え、大ヒットにも結びついている。大林さんの言う「大人の不思議」とは、正しいことだけでは生きていけない、欲望や執着といったドロドロしたものに、どうしようもなく惹かれ、それを美しいとさえ思ってしまう「人間の不思議」なんだと思います。