「CURE キュア」が暴く、人間の憎悪 ─ その1

『世界的作家、黒沢清のブレイク作』

エンターテインメントの皮を被った純文学、いや哲学書。僕が初めてこの作品を見た時の第一印象はそれでした。当時アカデミー賞を独占した映画『羊たちの沈黙』の大ヒットによって、サスペンスやミステリーに人間の心理が組み込まれ、取り分け「プロファイリング」という言葉が大はやりました。

それまでは現場に残った証拠から犯人を絞り込んでいくのに対し、行動科学によってまずは犯人像を規定し、その特徴から事件の推移や次の行動を推理するという、今では当たり前のことが描かれるようになったのです。

原作の作家トマス・ハリスはこれを機にサイコ・スリラーという分野を確立。当時は小説や映画、アニメに至るまで『羊たちの沈黙』をベースにした作品が多数制作されました。その後は皆さんご存じの通り、ミステリーの一ジャンルとしてすっかり定着し、今に至るまで数多くの作品が生み出され続けています。

ミステリーの歴史を更新した、画期的な一作。

本作『CURE キュア』もその影響から作られた、悪く言えば日本版『羊たちの沈黙』だろう。観る前はそう思っていました。けれど全く違う。おそらく制作者の企画意図はそうだったのでしょうが、監督・脚本の黒沢清さんはそれを利用して自分のやりたいことを成し遂げ、それだけでなく世界的ブレイクも果たした。これにより今に至るまで映画監督として着実なキャリアを歩み続けています。

CURE (1997) 松竹富士
20年以上前の作品ですが、今見てもやはり傑作です。

『娘に殺される青髯(あおひげ)とは?』

冒頭のシーンから印象的で、主人公である高部賢一(役所広司)の妻、文江(中川安奈)が精神治療の一環として、診察室でグリム童話の『青髯』を読み上げています。(※話をご存じない方はペロー版ですが青空文庫にありますのでこちらからお読みください)

けれど面白いのは彼女は純粋な絵本を読んでいるのではありません。ユング研究所の所長を務めたヘルムート・バルツ著の『青髭─愛する女性を殺すとは?』を読んでいるのです。この冒頭に『青髯』の話が載っています。

CURE (1997) 松竹富士

僕自身この本は未読ですが、ネットで検索するとまさにこの本と黒沢清さんのことを論じた月永理絵さんの『本を開くと映画が流れ出す』にその考察が書かれているのでご一読ください。その中から一部引用させていただきます。

『CURE』では、役所広司演じる刑事の妻が、病院のカウンセリングでこの本を読み上げる。『青髭』の物語が朗読されるだけでドラマの展開に直接関わることはない。一方バルツは、男性性/女性性という点からこの物語を読み解いていく。ユング心理学には詳しくないが、青髭の「内面の女性性」を指摘し、その妻を「時代遅れのフェミニスト」と呼ぶなど、その独特な視点がおもしろい。

なかでも興味を惹かれるのは、「禁じられた部屋」についての章。禁じられた部屋にはいつも秘密の力が隠されている、と著者は言う。禁じられたものは必ず明るみにでなければならない。つまり禁じられたものとは、初めから暴かれるために存在するということだ。

月永理絵(2016)「本を開くと映画が流れだす」

本作に照らし合わせればまさに「禁じられた部屋」とは間宮邦彦(萩原聖人)に他なりません。皆が間宮という禁断の部屋を開けることで様々な事件が引き起こされていく。つまり黒沢さんはこの本を冒頭に見せることで本作はこういう作品ですよ、と予め提示しているのです。

さらに重要なのが文江がここで語る「娘は最後には青髯を殺してしまうんです」の台詞です。青髯は「禁じられた部屋」を覗かれた結果、獲物である娘に逆に殺されてしまう。これは後のストーリーと照らし合わせれば分かりますが「青髯」は間宮、「娘」は主人公である高部です。

CURE (1997) 松竹富士

けれどもう一つ隠された意味がある。それは「もう一人の青髯」が映画内に存在しており、実はそれが文江だということ。そして「娘」は先と同様、夫である高部です。

精神を患っている文江(おそらくは若年性アルツハイマー)は高部を無自覚に、それ故、容赦なく苦しめ続けますが最後は彼に殺されます。つまり彼女は無意識のうちに己の未来を予測しているのです。だからこそ気づかぬうちにまるで地震のような貧乏揺すりをするのでしょう。

今作は内と外、それぞれの世界に存在する2人の青髯から狙われる、高部というある意味、現代社会の象徴のような受動的で何も考えずに生きてきた「娘的存在」が、間宮という「禁じられた部屋」を覗くことで力を獲得し、成長する物語だとも言えます

『禁じられた部屋』

月永さんが指摘しているように黒沢さんは多くの作品で人間の内にある「禁じられた部屋」を描き続けています。最近で言えば『クリーピー 偽りの隣人』なんかがそうですよね。けれど童話の中で青髯が娘に命じたように、当然ながらその部屋は開けてはならないものです。なぜならそこには強大な「暴力」が眠っているから。けれどそれは暴かれることで、暴いた人物の心に内在する、ある種の力を解き放つ。

開けられることで「厄災」と同時に「秘密の力」が解放され、「救済」がもたらされる。当初の作品タイトルは『伝道師』だったそうですが、当時起きていたオウム真理教事件との兼ね合いから、宗教的側面で観られるのを避けるため、治療を意味する『CURE』に変えたそうです。

これは結果として大正解だったと思います。このタイトルでなかったら、この作品の名作たる価値は幾分か弱まっていたのではないでしょうか。

また「禁じられた部屋」と同様、多くの黒沢作品で描かれてきたのは人間の「念」です。念とはそれぞれの人の中心に居座る思いや心の働きです。人を動かすのは思想でも合理性でもなく、実は意味不明な「念」や「気(心の動き)」である。

だからこそ監督の作品には『回路』や『岸辺の旅』、『ダゲレオタイプの女』など、それらが凝縮した「幽霊」を題材にしたものが多いのでしょう。

回路 (2001) 東宝
カンヌ国際批評家連盟賞受賞のホラー作品

本作において間宮は様々な人の心の中心に居座り続ける強力な「念」、すなわち本人すら自覚していない隣人に対する「強烈な憎悪」を抽出し、殺人という形で解放させていきます。それは法律や道徳では決して成し遂げられない「CURE=治療」であり「救済」なのです。

CURE (1997) 松竹富士

「あいつが憎かったんです」

「どうして?」

「色々です。あいつがうちの交番に来てから三年ぐらいになりますが、私ずっとこらえてたんです。でも、とうとう我慢できなくなったんでしょうね」

「殺したいほどですか?」

「はい。刑事さん、人殺したことないですよね? 心底人を憎むとああいう風になっちゃうんですよ」

CURE(1997)松竹富士

その2へ続く